吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

エレファント

これは並のホラーよりよっぽど怖い映画。特にラスト。この恐怖には震撼するしかない。]


 この映画、まずは画面の狭さに瞠目。窮屈な画面に手持ちカメラの映像が延々と淡々と映し出される。それは妙な風景だ。高校生たちの日常がほとんど退屈なまでに描かれていく。見ているうちに、「ははん、これはコロンバイン高校事件の被害者になった高校生たちの日常の一コマを描いているのだな」と気づく。だが、いったい被害者が誰で加害者が誰なのか、区別がつかない。狭い画面、ドキュメンタリー風の描写。そこには「フレーム(枠)」の存在を否が応でも観客に意識させる目論見がある。ダルデンヌ兄弟が「息子のまなざし」の極端な接写で「画面に映っていない膨大な情報の存在」を観客に意識させたのと同じように、ガス・ヴァン・サント監督は観客に、「我々が見ている画面は真実のほんの一端を切り取っただけだ、真実など誰にも知りようがない」という無能感をあらかじめ与える。
 

 突き放すかのように高校生たちの学校生活や家庭生活を淡々と長回しのハンディカメラで描いていく手法は、うっかりするとあまりにも退屈な日々の断面でしかないように思える。しかし、そこに突然、銃を持った男子高校生二人が戦闘態勢で校舎に向かう姿が映ると、あまりの違和感に観客のテンションがいきなり上がってしまう。「これから地獄が始まるぞ」と宣言する二人の高校生はまだ幼さが残る愛らしい顔をしているのだ。ここで思わず目が覚めると、次は再び場面は過去に戻る。巻き戻された日常生活の中で見せる高校生たちの生活、「エリーゼのために」を弾くその姿からは殺人鬼を想像することはできない。


 女子高生三人組は延々と親の悪口を言い合い、ダイエットや買い物の話など、ああでもないこうでもないと無駄話に花を咲かせる。ほかの高校生たちも似たり寄ったりで、そこには何もふだんと変わったことのない日常が描かれる。しかも、ヴァン・サント監督は彼らの日常を背中から撮る。それは「観察者」の視点を観客に意識させる。わたしたち観客一人一人が彼らの観察者であり、そこに何か「犯行に至った意味」を探ろうとする心性を喚起する。しかし、戦慄の殺戮場面が描かれている合間も、わたしたち観客にはその「意味」など「無意味」であることが知らされる。確かに犯行に至った二人はふだん学校で苛めに遭っていたらしいことはわかる。彼らが内向的で鬱屈した不満をため込んでいたこともわかる。しかし、どんな癇癪持ち人間でも、無関係な人まで巻き添えにして何十人も人を殺そうとは思わないだろう。


 もし反抗に至った高校生二人が「苛められた仕返しに」という理由だけでこのような大量殺戮に至ったのだとしたら、そして無関係な人間まで巻き添えにしても平気だったのだとしたら、それはまさに9.11の復讐のためにアメリカが見境なくイラクの市民を殺したのと同じ論理を生きたことになる。だが、ことはさように単純なアナロジーを許すのだろうか? この映画が言葉をなくす恐怖とともにいきなり終わってしまうのは、そのことへの答えづらさを表現していると言えるのではないか?


 とにかく怖い。しかし、この怖さを見据えて何をわたしたちはここから引き出すのか? 同じ事件を題材にしたマイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」の下品さや単純さに比べて(しかし、エンタメ的にははるかにムーア作のほうが面白い)、本作は恐怖と絶望の本質を突いたような作りだ。(レンタルDVD)(R-15)


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エレファント
ELEPHANT
アメリカ、2003年、上映時間 81分
監督・脚本: ガス・ヴァン・サント
製作: ダニー・ウルフ、製作総指揮: ダイアン・キートン
出演: ジョン・ロビンソン、アレックス・フロスト、エリック・デューレン、イライアス・マッコネル