吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ゆきゆきて、神軍

 奥崎謙三という人物は不思議な多面性を持つ。なんの予備知識もなく見たら、開いた口がふさがらないような奇矯で過激な行動に猪突猛進するこの人物のドキュメンタリーに衝撃と驚きをもつに違いない。とにかく奥崎に対して違和感や嫌悪感を強烈に抱きつつ、なのに見ている途中でほろりときたり、その一途さに打たれたり、その人物の強烈なインパクトに押しまくられて、この映画を一度見ただけでは奥崎が持つ思想をうまく掴むことができない。

 彼の思想のキーワードは二つ、「被害-加害」と「責任」だ。天皇に向けてパチンコ玉を投げ、不動産業者を殺して13年の懲役刑を受けた男奥崎謙三は、カメラの前でも平然と暴力を振るうような人間だが、彼なりの優しさをもち、彼なりの倫理観を貫徹させている。

 天皇を頂点とする戦争責任の追及が奥崎のライフワークであるが、その主張、そのやり方は万人の共感を得るようなものではない。酸鼻を極めたニューギニア戦線の生き残りである奥崎は、敗戦後23日も経って「敵前逃亡」罪で処刑された二人の兵士の仇を討つために、真相究明と称して遺族を伴い、当時の上官を訪ね歩く。アポなし突撃インタビューはマイケル・ムーアと同じだが、元上官相手に立ち回りを演じたり、カメラの前で何が起きるか予測がつかない「同時進行で進むドラマ」のスリルと、それがまさに目の前で起きているがための「いたたまれなさ」がある。

 元上官たちの戦争責任を問い詰める奥崎の舌鋒は鋭く、また他者の責任を追及・糾弾しているときの奥崎は全身が「正義の体現者」と化している。「死者を代弁するな」とはレヴィナスの言葉だが、奥崎は戦友を代弁し、彼らの無念を晴らそうとする。あげくは遺族の名まで騙る。そのような「声高な正義で他者を糾弾する」という古いタイプの社会運動特有の文法をこのような醜悪な露骨さでみせつけられると実に辟易するのだ。と同時に、「わたしは責任を負ってきた。わたしは自分の罪の責任をとる。決して逃げない」と宣言して自ら警察を呼んだりといったパフォーマンスを忘れない奥崎を見ると、自身の責任を回避しない潔い人間ではないかとぐっと評価が揺れたりしてしまう。当時の上官たちは濃度の差はあれ、「しかたがなかった」「そんな時代だったから」「あの時は生きるのに精一杯で」と、誰も自らの責任を引き受けようとはしない。上は天皇から下は下士官まで、無責任な心性をいまだに引きずっている。

 映画作品としてみると、奥崎謙三の毒ばかりが眼につくようでいて、実はその彼の姿を執拗に追うカメラ=原一男のすごさにも驚嘆する。目の前で奥崎が病人を殴っているのに止めようともせずカメラを回し続ける執拗さは尋常ではない。カメラマンはいったい何をしているのだ?!と観客が思わずにはいられないような緊張感に溢れる作品というのも空前絶後ではなかろうか。かといって、重苦しい映画かというと実はそうではなく、映画の後半を一緒に見ていた息子達が思わず笑い転げていたように、奥崎謙三の生真面目な行動は時に笑いを誘ってしまうのだ。奥崎はカメラを意識してその前で自然に演技のできる稀有な役者なのかもしれない。

 天皇に騙された、天皇のせいで酷い目にあった、という徹底した被害者意識から始まり復讐のためには暴力を辞さない奥崎の執念におそれいりながらも、この執拗さがなければ元上官たちは口を開かなかったのだろうと思うと複雑な気持ちがする。中には最後まで「おれは言わないよ、言わないほうがいいことだってあるんだ。遺族には言えないような死に方をしてるんだよ、みんな」と頑として奥崎に抗った人物もいたが。

 ただ、この作品は87年に公開されているのに、実際に奥崎が写っているのはそのかなり前までだ。空白の数年間に原一男と奥崎の間に何があったのだろう?(レンタルDVD)

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日本、1987年、上映時間 122分
監督: 原一男、製作: 小林佐智子、企画: 今村昌平
出演: 奥崎謙三