吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

紙屋悦子の青春

病院の屋上のベンチに老夫婦役の原田知世と長瀬正敏が暗い表情で座っている。二人はどうでもいいような会話を薩摩弁で延々と繰り返す。映るのは屋上と雲だけ。メイキャップで老けさせているけれど、この二人はどうみても老人に見えない。しかも延々と退屈な会話が続く。これはいったいどうなるんだろうと思わせておいて、いきなり時代は戦時中へ。あとは限りなく地味な室内での会話劇が展開されるだけなのに、画面から目が離せなくなる。黒木監督の遺作は、枯れて淡々とした味わいの悲しい悲しい物語だった。


 明石少尉は海軍の若き将校で、特攻の志願をして散っていく。彼は死ぬ前に自分が愛した女性を親友に託していくのだ。愛した女性といっても相手にはその想いを伝えたわけではなく、相手の紙屋悦子も想いを誰にも伝えていない。奥ゆかしく、ただひたすら想いを忍び忍んで胸にしまい込むだけの二人が、一言の愛の言葉を交わすこともなく別れていく。残った明石少尉の親友永与少尉は悦子と見合いをしてすっかりその気になる。


 ストーリーはただこれだけだ。なんの盛り上がりもなく、ただただひたすら戦時下の日常生活を、じっと据えられたカメラが見つめていくのみ。小津ばりの低い位置の固定カメラで長回しをする黒木監督、この人はこういう作風だったっけ? 戦時下・戦後の三部作としては、「父と暮らせば」(http://d.hatena.ne.jp/ginyu/20050923)や「美しい夏キリシマ」とも雰囲気が違う。随分昔に見た「TOMORROW」に近いかも。黒木さんの作品としてはもっとも感動したのが本作だ。


 今ではもう都会では見かけなくなった卓袱台を挿んでの夫婦の会話。カメラは固定のまま、延々と二人を撮りつづける。戦時下の食事は質素この上ないけれど、それでもまだ若い夫婦はしっかりと食事をしている。その食事風景が失われた何かを思い出させる。本上まなみ小林薫という夫婦がご飯を食べながらああでもないこうでもないと妹の悦子のことを案じ、東京大空襲で両親を亡くしたばかりの二人は、それでも鹿児島には空襲もほとんどないと語り合う。「お父さんたちも東京へ行ってなければ死ぬことはなかったのに」という後悔は、帰りが遅い悦子の身を案じる気持ちへと繋がっていく。このシーンは役者には大変な負担だったと思うが、二人とも実にうまく演じていて、感心した。


 そんなふうに戦時下の日常生活が描かれる。戦場はまったく登場しない、銃声も聞こえない、空襲警報もない、ほんとうに戦争をしているのか?と思うほどだ。だが、そこには確かに戦時下にしかない緊張感が漂い、言葉の端々と、人物のたたずまいに戦争の悲劇を感じさせる。見合いにやってきた相手に悦子はぼた餅を作って供する。それがどれほどの貴重品であるか、観客たるわたしでさえ知っていることなのだから、登場人物たちが生唾を飲み込むようにぼた餅を眺める気持ちが手に取るようにわかる。それでも、カメラはあくまで淡々と距離を置いてほとんど動かない。決して扇情的な動きはしない。


 悦子が愛する明石少尉がいよいよ出撃のために基地へ異動する前夜、紙屋家に挨拶に来る。もう二度と会うことのない人に、悦子は固い表情で精一杯、ただ、「御身御大切に」(※註)と言う。「御身御大切に」。この言葉は単なる挨拶語ではない。愛する人に語るべき言葉も失った女が、精一杯魂の底から絞り出した言葉なのだ。「御身御大切に」。もうすぐその御身は喪われる。二人は愛し合いながら互いにそのことは一言も言わず、手も握らず別れて行く。そんな時代だったのだ。好きな人に好きということさえ憚られる、未来などなにも考えることのできない、そんな戦争の時代だった。


 役者たちの年齢がちぐはぐなのだが、舞台劇そのままのような雰囲気を漂わせるこの映画ではさほど違和感はない。とにかく淡々とした映画で、けれど脚本がしっかりしているので、だらだらとした日常会話の中にしっかりと戦争の暗い影を掴むことができる。悲恋ものはやはり涙腺が緩む。悦子が「御身御大切に」と言った瞬間に泣けて泣けてたまらなかった。(レンタルDVD)


<追記、2008.6.22>
「御身御大切に」は間違っているというご指摘がありました。正しくは「御身体御自愛下さい」だそうです。わたしは「御身御大切に」のほうがこのさい悦子に似合っている台詞だと思うのでこのまま表記しておきます。

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日本、2006年、上映時間 111分
監督: 黒木和雄、製作: 川城和実ほか、原作: 松田正隆、脚本: 黒木和雄、山田英樹
出演: 原田知世、永瀬正敏、松岡俊介本上まなみ小林薫