吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

カポーティ


 
 実はこの映画の後につづけてソクーロフ監督の「太陽」を見てしまったばっかりに、本作の印象が薄くなってしまった。それほど「太陽」が強烈だったのだが、この「カポーティ」も悪くはない。できるだけ頭のなかで「太陽」と比較しないように心がけるつもりだが、ついつい「太陽」の影になりそうな作品だ。


 という前置きはともかく、カポーティの長編小説『冷血』を読んでから見るべき映画であることをまず書いておく。

 1950年代に珍しく同性愛者であることを公言していた作家、トルーマン・カポーティ。『ティファニーで朝食を』の成功によりニューヨークのセレブの一人であったカポーティだが、初のノンフィクション小説『冷血』を6年がかりで書き上げ絶賛を浴びて以来1984年に亡くなるまで一作の長編も完成させることがなかった。

 なぜ「天才作家」の名をほしいままにしていたカポーティが『冷血』以後、作品を書けなくなったのか、そして最後はアルコール中毒になって死んだ、その理由はなんだったのだろう。映画はカポーティの作品そのもののように、緻密に彼の執筆過程を追う。

 『冷血』は、1959年に起きた一家4人惨殺事件を取材した作品で、1966年に出版された。この作品でカポーティは「ノンフィクション小説」というジャンルを確立した。『冷血』は真に迫るドキュメントであり、構成・文体ともに優れた文学的香りの高いルポである。だが、わたしはこの小説に惹かれながらも、どうしても隔靴掻痒の感をぬぐえなかった。殺人事件の起きたその一日の描写を丹念に描きながら、肝心の殺人そのものについては妙に上っ面をなでただけになっているからだ。犯人達の生い立ちに迫り、彼らの内面をえぐろうとした小説なのに、どういうわけか、犯行そのものの描写が弱い。犯人の心理が見えない。

 その謎はこの映画を観ることで解けた。犯人の一人ペリー・スミスに親近感を抱いたカポーティはペリーと「友情」を結びながら取材を続けたが、どうしても犯行の詳細を聞き出すことができなかったのだ。カポーティと同じく孤独で多感な少年時代を送ったペリー・スミス。ペリーに共感を覚えたカポーティは、自分の文学的野心のために近づいた彼に「魅了」されてしまう。取材のためにはあらゆる努力を惜しまず、他者を利用することをいとわないカポーティ。だが、彼を「友人」と慕ってくるペリーに冷血人間であることを貫けなかった。

 主演のフィリップ・シーモア・ホフマンは、カポーティの話し方に似せて、奇妙な高音でしゃべる。カポーティの身振りや癖を相当に研究したらしく、彼は「それらしく」演じている。饒舌で話芸に秀でた華やかなカポーティの姿をカメラは何度もとらえるが、カポーティという人物はどう見てもわたしには魅力的に見えない。この映画の最大の欠点はここにある。悪人なら悪人でもいいが、もっと無慈悲に創作に打ち込む人間であればよい。だが、カポーティは悩むのだ。犯人達が死刑にならなければ小説は完結しないというのに、いつまでも裁判は長引く。早く死んで欲しい。だが、いったん親しみを感じてしまった者に死んでほしくない。カポーティは悩む。逃げたいのに、ペリーは何度も手紙を寄越す。「親愛なる友?へ」という手紙を書いてくるのだ。作家の創作の苦しみ、取材対象者との距離のおきかた、といったありがちな苦悩をホフマンはそれらしく演じる。

 わたしは、この作品のテーマである、カポーティの作家としての苦悩よりも、他者が語りたがらない犯罪という暗部に分け入ろうとする者の業に興味を持った。ペリーは犯行について語ろうとしないが、カポーティはなんとしてもそこを聞かねば作品が書けないから、必死になる。

 なぜ語れないのか、なぜためらうのか、それはわかる。自分の罪に向き合うことの恐怖に犯人が立ち竦むのは理解できるが、ではついに語ったとき、それは真実なのだろうか? この映画は、罪と向き合うことから逃げようとする犯罪者と、そこに立ち入ろうとする者との葛藤という物語ともとれる。問題は、罪を見つめることを「強要」する人間が精神分析医でもなければ彼の支援者でもなく恋人でも家族でもなく、犯人を利用しようとする作家である、ということだ。犯人を贖罪させようとか救おうなどという気持ちのないカポーティが、果たして犯人の「心の闇」に迫れるのか?

 だがついにペリーは犯行の様子を語る。その内容はカポーティの『冷血』とほぼ同じだ。カポーティはあの程度の「語り」で納得したのだろうか。さきほど「謎が解けた」と書いたけれど、結局謎は解けなかった。なぜカポーティがあの程度の堀りこみで納得して作品を完成させてしまったのか、不思議だ。カポーティが肝心の部分で犯人の心理をつかめなかった理由は、彼が犯人に同情しすぎていたからかもしれないし、逆に、計算高かったのが原因かもしれない。どちらなのか、わたしにはわからない。
 この映画は、決して悪くない。どころか、かなりいい雰囲気を出している作品だと思うのだが、いかんせん「太陽」を見てしまったし、その後「ニュー・ワールド」とか「フラガール」とか、強烈なのを立て続けに見たもんだから、凡作に思えてくる。地味な作品だし、『冷血』を読んでいないと面白み半減だし、そういう意味では損な映画。

制作年 : 2005
上映時間:114分
制作国:アメリカ合衆国
監督: ベネット・ミラー
製作: キャロライン・バロンほか
製作総指揮: フィリップ・シーモア・ホフマンほか
原作: ジェラルド・クラーク
脚本: ダン・ファターマン
音楽: マイケル・ダナ

出演: フィリップ・シーモア・ホフマン
    キャサリン・キーナー
    クリフトン・コリンズ・Jr
    クリス・クーパー
    ブルース・グリーンウッド
    ボブ・バラバン
    エイミー・ライアン
    マーク・ペルグリノ
    アリー・ミケルソン
    マーシャル・ベル