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吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

ミュンヘン

       

 1972年9月、ミュンヘンオリンピックの選手村で起こった惨劇のことはよく覚えている。新聞の1面に黒抜きでデカデカと見出しが載り、テレビは大きく事件を報道していた。当時中学2年生のわたしにはパレスチナでの争いがどういうものなのかよくわからなかったが、オリンピックがまさに政治の舞台であるということ、世界中が注目する場をパレスチナ・ゲリラ「黒い9月」は良く知っていたということに改めて驚いた。この事件ではパレスチナ・ゲリラ側に悪い印象しか残らなかった。だが、その後、イスラエル政府が殺された自国選手11人の報復のために「黒い9月」関係者を暗殺していったことはまったく知らなかった。

 原作本は既に1980年代に出版されているが、この映画によって初めて全世界にこの事実が大きく知らされたのではなかろうか。まことに映画の影響力は大きい。9.11後だからこそこの映画を作る意味はあったのだろうし、ユダヤスピルバーグ監督だからこそ、この映画は作られたのだ。

 スピルバーグらしくサスペンスシーンの盛り上げ方がうまく、3時間近い長尺がまったく苦にならない。イスラエル秘密暗殺隊リーダーのアヴナー(エリック・バナ、低い声が素敵!)の内面に迫るドラマ作りも、緊迫感の盛り上げに大きな効果がある。ドキュメンタリータッチの映像処理が巧みで、とりわけ巻頭のミュンヘン事件は当時の映像をそのまま使ったかのような印象を受ける(一部、当時の実写映像あり)。
 その映像がリアルで悲惨であるからこそ、イスラエル側の報復決定も一抹の説得力がある。そして、秘密裏に結成された暗殺ミッション実行班は元モサドイスラエル機密情報機関)のアヴナーをリーダーとした5人。年齢も出自も異なる5人が国家への忠誠を誓い、祖国愛に燃えて過酷な任務を遂行することになる。それでも彼らは初めは人を殺すことに躊躇いを覚えて、簡単に引き金を引くことができない。民間人の巻き添えを避けるために用意周到に爆破準備をしたつもりが、思わぬアクシデントが起きたりする。

 最初は罪悪感や躊躇いがあった殺人に対してだんだん感覚が麻痺していくとアヴナーは言う。その一方で、身重の妻を故郷に残して来なければならなかった彼の悲痛な思いが観客の胸に迫る。父の不在にいつの間にかすくすくと大きくなる娘の幼い声を電話越しに聴いてむせび泣くアヴナーの姿には、冷酷な暗殺者の影は微塵もない。
 一人また一人とアラブゲリラの指導者を暗殺していく彼らが、いつの間にか逆に命を狙われる立場に立たされていることに気づく。恐怖のあまりベッドに眠ることもできない日々。また、仲間の中からも任務の正当性について疑義が出されていく。
「そもそもイスラエルには死刑がない」「テロリストの指導者を殺してもまた次のリーダーが出てくる。またそれを殺すのか? いつ終わる?」。

 仲間が殺されていく衝撃の中で、アヴナーの確信は揺らぐ。暗殺するはずの当の相手と偶然にも気さくな会話を交わした後で、その男を殺さねばならない。アヴナーの手許に躊躇いが走る。パレスチナゲリラの若者は「100年かかろうと祖国を取り戻す」と熱い情熱を語る。彼らの思いはイスラエル側もパレスチナ側も同じではないのか? 二つの正義が争ったら、どっちが勝つのか? その争いに終わりはあるのだろうか。

 この映画は、イスラエル側から撮られているとはいえ、アヴナーたちの内面の葛藤を描いたために、非情な国家への批判が痛烈に貫かれている。アラブゲリラ側も、パレスチナの難民は悲惨な生活をしているというのにゲリラの指導者たちが豪邸に住み優雅な暮らしをしているように見えるのは、いい印象がしない。この映画がイスラエルパレスチナ双方から批判されているというのも納得だ。わたしには、この映画はスピルバーグユダヤ人に向けて「血の報復はやめよ」と訴えているように見える。

 ドラマ作りの確かさだけではなく、本作の優れたところは、画像の枯れた雰囲気やロケ地の風景が映画にしっとりとした重みを与えている点だ。ほとんど全編ヨーロッパロケでかつ画質の彩度の低さが古いフランス映画を彷彿とさせる懐かしさがある。ところが驚いたことに、パリもローマも実は大半はロケではなくセットだったと劇場パンフレットに書いてある。30年前のヨーロッパの町並をどのように再現させたのか、ロケは大変だったろうと思いきや、プロダクションデザイナーはロケ地にマルタ島ブダペストを選んで、彼の地にセットを組んだという。

 また、ジョン・ウィリアムズの音楽はメロディーラインを強調することなく、控えめに、だが実に効果的に暗い旋律を奏でている。映画全体の陰鬱な雰囲気をよく表していた。エンディング・テーマだけは物悲しく重々しい美しさがあったが、全体的にはBGMに徹していた。

 物語の舞台はヨーロッパ13カ国に及び、最後はニューヨークへ飛ぶという忙しさ。さらに、当時の世界情勢についてはほとんど説明がなく、「67年の戦争」という台詞が第3次中東戦争を指すことも説明がない。歴史に疎い若者にはさっぱりわからない内容なので、必ず見る前に予習してほしい。

 最後に役者について。エリック・バナは「悩める貴公子」という感じがたいへんよろしい。モサドの連絡係を演じたジェフリー・ラッシュの芸達者ぶりを本作でも再確認。役者一人ひとりがとても印象的だ。謎のフランス人情報屋ルイを演じたマチュー・アマルリックは怪しげで小ずるそうな雰囲気がぴったり。ほんの端役でヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(「ふたりの5つの分かれ路」)が登場したのも印象に残った。アヴナーの母もなんだか「銃後の母」みたいな凛々しさがあり、イスラエルの軍人の母はかくたるものかと思わせる貫禄がある。

 この映画についてスピルバーグが言いたいことはただ一つ、暗殺者アヴナーの台詞に凝縮されているだろう。「こんなことを続けた先に平和は来ない」。
 重苦しい3時間だけれど、実に見ごたえのある力作だ。

制作年 : 2005
上映時間:164分
制作国:アメリカ合衆国
監督: スティーヴン・スピルバーグ
製作: キャサリンケネディほか
原作: ジョージ・ジョナス『標的(ターゲット)は11人』
脚本: トニー・クシュナー
    エリック・ロス
音楽: ジョン・ウィリアムズ

出演: エリック・バナ
    ダニエル・クレイグ
    キアラン・ハインズ
    マチュー・カソヴィッツ
    ジェフリー・ラッシュ
    ハンス・ジシュラー
    ギラ・アルマゴール
    イヴァン・アタル

    マチュー・アマルリック
    ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ
    マリ=ジョゼ・クローズ