吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

<死>をめぐる商売

 先週、臓器移植問題の学習会に参加した。といっても、実際には「オール・アバウト・マイ・マザー」(スペイン、アルモドバル監督、1998年)のビデオを見ただけなのだが。ビデオを鑑賞後に喫茶店で食事しながらスペインの臓器移植コーディネーターについてレジュメを読んだりして少し勉強した。もっとも、いちばんよくおしゃべりしたのは映画の話題だった。この学習会は女ばかり4人が集まって小ぢんまりと開かれたのだが、結局みんな映画好きだということがわかって、映画の話に花咲いてしまった。


 「オール・アバウト・マイ・マザー」を見たのは二度目だが、一回目と随分印象が違うので驚いてしまった。わたしのシネマ日記には明るい作品であるかのように感想が書いてあったが、とんでもない、えらく暗い映画だったのだ。学習会では「ピピのシネマな日々」から本作のシネマ日記を印刷配布され、改めて自分の文章を読んですっかり忘れていた映画のことを少しずつ思い出した。作品を再見すると、ものすごく話がゴチャゴチャしていることが判明したし、いかに作り話とはいえ偶然が多すぎたりご都合主義的展開が随所に見られて、完成度の低さが目についた。でもラストがいいので、爽やかな印象が最後に残る。見終わってやっぱり、いい映画だったなと思わせてしまうところが憎い。


 その「オール・…」の冒頭に、臓器移植問題が描かれている。そもそも主人公のマヌエラという女性は臓器移植コーディネーターなのだ。そしてどういう偶然か、彼女の一人息子が脳死状態になり、医師にせっつかれて臓器移植を承諾するサインをさせられる。まさに、「させられる」のだ。しかも、非常に機械的に事務的にてきぱきと臓器のチェックや脳死判定が行われ、家族はあれこれ思い悩む時間も別れを惜しむ時間も与えられていない。臓器が運ばれるシーンも、精肉業者が肉を冷蔵パックで運ぶような感覚に思えてならない。
 死生観や宗教の違いなのか、あのように死者を扱うことはわたしには耐え難く感じた。

 
 初めてこの映画を見たとき、臓器移植コーディネーターの話はまったく印象に残らなかったので、「臓器移植問題について考えるヒントに『オールアバウト・マイ・マザー』を見ます」というメールを主催者からもらったときには解せなかったのだ。実際、映画の冒頭で臓器移植問題は触れられるが、あとの展開にはまったく関係がない。だから印象に残らなくてもやむをえない。
 アルモドバル監督はどうやら、<死と病>というテーマに執心しているようで、「トーク・トゥ・ハー」もそういう話がメインになっている。


 臓器移植問題でわたしは義妹の葬儀を思い出した。喪主である弟がどのような契約を葬儀会社と交わしたのかは知らないが、いろんなパックがあるのだろう。その中に、「湯灌」があったのだ。
 8畳ほどの広さの部屋だったろうか、通夜に先立つ湯灌の儀式に通されたのは近親者のみ。具体的には、弟、両親、わたし、義妹の両親と姉夫婦だ。遺族は椅子に座って湯灌作業を見守る。葬儀会社の人が二人一組で作業を行うのだが、作業を行う場所は畳敷き(2畳?)になっている。畳の上にビニルシートを敷きさらにその上に白い布を敷き、その上に乗った横長のバスタブ(ステンレス製か)に遺体が裸で寝かされ、上にはバスタオルがかけてある。湯灌作業の間じゅう、遺体の裸の姿は決して遺族には見せないように工夫されている。


 「ただいまより、ご遺族様になり代わりまして、わたくしどもがご遺体の湯灌をさせていただきます云々」という前口上を男性が畳の上に膝をついて厳かに申し述べた。わたしたちは黙っている。粛々と行事は執り行われる。まず、「逆さ水」。男性係員が、「このように、桶を右手に持ち、柄杓を左手に持ってご遺体の足下から胸に向かって動かし、水をかけてください」と説明する通りに、喪主から順々に儀式を執り行う。これは遺体を清める儀式であり、柄杓は必ず足下から胸元に向かって動かし、その逆をやってはならない。


 続いて、中年の男性と二十代くらいの若い女性が一組で作業を行った。彼らは白いシャツ、黒いスカート/ズボンに黒いエプロンをつけ、ゴム手袋をはめて遺体をシャワーで洗っていく。丁寧に石鹸をつけて足下から順に遺体を洗い、髪もきちんとシャンプーし、ドライヤーで乾かし、櫛で髪をとかして爪を切り顔を剃ってきれいに化粧を施す。頭を洗ってもらっているとき、気のせいか義妹はとても気持ちよさそうに見えた。一つ一つの手さばきがたいそう丁寧で、遺族としては、遺体を丁重に扱ってもらったことに満足感を得ることができる。


 資本主義はあらゆる私的領域を侵食しつつある。近年、家事の市場化の進展は目覚しいが、葬儀も市場化が進んでいる。本来ならば遺族の手で行う湯灌を、業者が代わって行うわけだ。遺族はただその儀式の手際のよさの前に鎮座ましまして茫然と亡骸を見つめるだけ。あれよあれよという間に遺体は清められ、美しく仕上げられる。葬儀を葬儀会社が行うなど、前近代にはありえなかったことだ。葬儀は近親者と村落共同体の中で執り行うものだった。それが、都市化の進展と資本主義の発達により、葬儀の市場化が定着した。そして、市場化はとどまるところを知らない。


 このように懇切丁寧になにもかもやってもらって、喪主は葬儀会社にサービスの対価を支払う。資本主義は需要のないところに需要を生み出し、あらゆる生活領域を市場にした。上記のように、本来ならば遺族の手で行うはずの行事もすべて葬儀会社まかせとなり、付加価値をたくさんつけた葬儀パックを喪主は買うことになる。


 ただ、この湯灌の儀式の間中、遺体は生きているとき以上に丁寧に扱われ、それはそれで遺族の感動と涙をそそるのだ。だが、同じ「死」をめぐる処置としても、臓器移植は遺体を「さっきまで生きていた人の身体」として扱わないという、丁重さに欠ける面が見られる。脳死を宣告された瞬間に遺体は物体と化し、てきぱきと腑分けされ、生命のあった者のかけがえのない肉体としてではなく、個別化され部分化された材料として扱われる。


 スペインの移植コーディネーターについて学習したところでは、臓器移植を遺族に数多く納得させたコーディネーターにはボーナスが出るとか、なんだか空恐ろしいような状況があるようだ。


 遺体も資本主義の手にかかれば金儲けの材料だ。葬儀も臓器移植もそういう意味では本質は同じ。わたしたちは今、そういう時代に生きている。