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吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

母から母へ

 学生時代からの友人峯陽一くんが、おつれあいのコザ・アリーンさんと共訳書を出版された。彼らは1999年から2年間南アフリカ共和国へ家族連れで留学していた。彼らの出発前に歓送会を開き、帰国したときには歓迎会を京都で開いた。2年の間に子ども達はすっかり大きくなり、バイリンガルどころかトリリンガルになって帰ってきた。京都の小学校へ編入されたお嬢ちゃん(当時小学1年)は、日本の公教育が肌になじまず、宿題のあることにとまどっていたという話を歓迎会で聞いた。それから既にまた2年が経とうとしている。

 訳者二人が一緒に出す本は初めてではないだろうか。すでに峯氏の「現代アフリカと開発経済学」については感想を書いたが、今度は小説だ。それも南アフリカ女性作家の作品である。遠い南アフリカの小説など読んだことのある日本人は少ないに違いない。もちろんわたしも読んだことはなかった。峯氏が訳しているのでなければ、読まなかっただろう。そういう意味では、南アフリカの小説をわたしに教えてくれた峯氏に大いに感謝している。このようなすぐれた作品があったとは、不覚にも今まで知らずにいたのだ。

 小説の翻訳に関しては、訳者たちはプロではないはずだ。峯氏の専門は経済学。コザさんの専門は技術翻訳。だが、この小説は訳がとてもいいのだろう、たいそう読みやすく、文体も躍動感にあふれ、少々エキセントリックな表現も、見事にその雰囲気をかもし出している。

 この作品はフィクションであるが、1993年に実際に起こった女子大生殺害事件をベースに書かれている。殺されたのはアメリカからの留学生、白人、女。殺したのは南アの黒人、若者、男。アパルトヘイトが撤廃された最初の選挙、その選挙を手伝うためにやってきた白人女性を殺してしまった黒人たち、これほどの悲劇があろうか?

 物語は、加害者の母から被害者の母へあてた手紙から始まる。
 「私の息子が、あなたの娘さんを殺しました」
 なぜ息子が白人女性を殺したのだろう? なぜ、なぜ? 加害者の母の一人称で語られるこの物語は、息子の物語ではなく、母の物語。時代を超え、国境を越えて普遍的な苦しみを背負うすべての女に共通の物語。
 家族制度のおもりを引きずり、自分の生を生きることなく、怨嗟の中で年老いていく女の物語。
 この作品を読む日本の女性も、決して他人事とは思えないその女の歴史に共鳴し、慟哭するだろう。

 教育のない女性の一人語りとは思えない知性に満ちたその語りは、力とスピード感に溢れ、読者は一気に物語世界に吸い込まれて最後まで読み進んでしまう。実はここが不思議な点だったのだ。作者のシンディウェ・マゴナはアメリカへの留学経験をもつインテリ女性だ。彼女が代弁した故郷の無学な女性の半生は、教養のない女性の語りにしては不自然だ。こういう感想を抱いたのはわたしだけではないようで、訳者あとがきにもそのような批判があることが書かれている。そしてそれに対して、訳者の反論も用意されている。
「無教育の黒人女性が洗練された英語を使ってはならないとでもいうのだろうか。……マゴナはどうやって英語を身につけたのだろう。彼女が育ったググレトゥには、本屋などなかった。しかし、彼女の「隣のおばさん」は白人家庭の召使いをしており、「奥さまの子どもたち」が読まなくなった本をもらっては、本好きのマゴナに与えてくれていたという」。

 しかし、マゴナが真に才能ある作家ならば、「無学な女性」の文体で豊かな内容と知性と知恵が感じられる小説を書けるはずだ(「無学な女性」は、無知で無教養かもしれないが、豊かな知恵と感性にあふれていないとは言えまい)。じっさい、そのようなものをわたしはアメリカ黒人女性文学の作品にあるのを知っている。
 ここにおいて感じることは、サバルタンの語りの困難性だ。サバルタンとは、従属世界の抑圧された存在を意味する。具体的には、この場合、南アフリカ共和国の貧しい黒人女性を指す。訳者あとがきによれば、マゴナは代弁者として自分を位置付けているようだ。自分自身が加害者の母になっていたかもしれないという切実さをマゴナが感じていたとしても、あくまでも彼女は代弁者に過ぎない。サバルタンは語りえないのか? サバルタン自らの言葉では何も表現できないのだろうか?
 わたしはマゴナの作品の意義が小さいなどと言いたいのではない。表現することの難しさを痛感してしまうのだ。

 この作品じたいは、南アフリカ黒人女性の苦しみがひしひしと伝わる見事な筆致に彩られている。しかも、その眼差しは遠い先祖の歴史時代にまで及ぶ、重層的なふくらみをもつ。それは、あくまでもマゴナという知識人が描いた世界だ。
 ただ、こういうことを書くと、それではいっさいの(ノン)フィクションが成立しないということになってしまう。自分が体験したことしか書けないし、サバルタン自身が語ったこと以外には<真実>が存在しないことになってしまう。それは違うだろう。

 スピヴァクはこう言う。「みずから知っていて語ることができ、代表しようにも代表しえないサバルタン的主体などといったものは、そもそも存在しない。……知識人のとるべき解決策は代表することから身を引くことではない」(G.C.スピヴァク著「サバルタンは語ることができるか」みすず書房、1998年、44頁)。

 今はこれ以上の論を展開できない。わたしにはまだまだわからないことが多すぎる。
  さらに不満点をつけ加えれば、母の生い立ち、その哀しみや痛みはよく伝わってくるのだが、かんじんの殺人犯である息子がほとんど描かれていないことだ。だから、この小説の冒頭に、なぜ息子が殺人を犯したのか、「あなたは、私の息子を理解しなければなりません」と書いてあるにも関らず、それが結局最後まで明らかにならない。読者は大いなる想像力を駆使してそのことに思いを馳せねばならない。単純化してしまえば、「殺害の動機は、白人入植者が圧倒的多数の黒人を抑圧し搾取してきたその歴史に対する怒りである」と言える。だが、そんなことは読まなくてもわかっている歴史的事実であり、黒人の集合意識である。わたしが知りたかったのは、個別具体的な人々の生と、社会意識と自我のはざまで揺れる心だ。この小説が母の一人語りである以上、息子の内面に深く分け入るのには限界がある。もう一つの物語として、息子の語りが必要ではなかったか。

 さて、「母から母へ」と題しながら、一方の母(被害者の母)はここには登場しない。それがもう一つの不満なのだが、それに対しても訳者はこのように言う。
「虐げられた側に架橋の努力を強制することはできない。求められているのは、むしろ壁のこちら側からの想像力ではないだろうか」

 かくのごとく、特筆すべきは訳者あとがきの充実ぶりだ。優れた小説論であるだけではなく、物語の背景となった南アフリカの歴史の簡潔な解説も本作品の理解に大いに役立つ。文献紹介もあり、この「あとがき」だけでも立派な一つの作品になっている。正直に言えば、小説本編よりもこのあとがきの方が優れていると感じた。と書けば誉めすぎだろうか。

 いろいろ厳しいことも書いたけれど、この小説が一気に読み通すことのできる力にあふれた作品であることは間違いない。遠い南アフリカの女性の嘆きが聞こえてくる。それは遠い国の遠い出来事としてではなく、読者の現前に生き生きと立ち現れる。そしてわたしは、深いため息の底から、わたしたちのなすべきことを次に考えている自分に気づく。

 読後二日経って、ますます心にずっしり響いてきた。いい作品です。皆さん、ぜひ読んでください。

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「母から母へ」
シンディウェ・マゴナ著 ; 峯陽一, コザ・アリーン訳: 現代企画室, 2002