吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ザ・ワーズ 盗まれた人生

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 てっきり原作小説があるのだと思い込んでいたが、そうではないと知って驚いた。こういう話を映画で、オリジナル脚本で作る蛮勇にまずは拍手。
 劇中劇として語られる、「他人が書いた原稿を使って立身出世した新人小説家」という設定がそもそも原作小説があるように思われるのだが、この映画ではその劇中劇たる小説も全部映画内で処理する。そこがすごいと思わせる。もちろん、それがすごいことだと分かる鑑賞者によってのみ理解されるような造りなので、この映画はそもそも大衆受けを狙っていない。
 そして、その劇中劇の二重構造(実は三重構造)にこそ罠があって、最終的に、つまりメタレベルの最上段において物語総てを左右しているようなデニス・クエイドの立場がほんとうにこの映画物語内において完結できているのかどうかが謎として残る。
 そもそもデニス・クエイドの前に現れる謎の美女は誰なのか? なんのために登場したのか? 彼女は盗作作家としてのデニス・クエイドを懲罰するために現れたのではなかったのか? そうでないならば、なんのために存在するのか。この映画は失敗作だと思う。非常に面白い試みをしているのに、盗作作家が実のところ「誰なのか」を提示するために置いたヒントが矛盾しているために結果の謎解きが破綻している。
 しかし、合わせ鏡のようにどこまで続く「だれが犯人なのか」を当てるための永遠に終わらないような問いを残したところは実に憎い。
 それともう一つ、ブラッドリー・クーパー扮する若き作家は自分の過ちを出版社の編集部に告白した。にも拘わらず、彼は誰にも罰を受けることなく成功の道を歩んだことになるはずだ。観客はブラッドリー・クーパーと、彼が主人公となる小説を書いた作家デニス・クエイドを、同一人物だと思って見ているわけだが、そこにも罠があるのかもしれない。
 幾重にも張り巡らされた謎が観客の心をそそるが、しかし謎が解けたからといって「だから、なに?」という点が否めない。(Amazonプライムビデオ)
(2012)
THE WORDS
96分
アメリ

監督:ブライアン・クラグマン、
リー・スターンサール
製作:ジム・ヤングほか
脚本:ブライアン・クラグマン、リー・スターンサール
撮影:アントニオ・カルヴァッシュ

ドント・ウォーリー

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 今となっては「政治的に正しくない」と批判されそうな風刺漫画を1980年代から描いていた漫画家、ジョン・キャラハンについて知っている日本人は少ないだろう。彼の作品を見ると、どこかで見たことのある懐かしさがこみあげてくる。ヘタウマと言えばいいのか、不自由な手で描かれたその線は歪み、人物の目玉は飛び出していたりするが、ブラックジョークを通り越したような差別ネタやきわどい風刺で時に物議をかもしたその絵は、多くのファンを生んだと共に多くの怒りを呼んだ。
 ジョン・キャラハンは21歳の時に自動車事故で四肢麻痺となり、車椅子生活を余儀なくされる。酒浸りだった彼は27歳で禁酒会に通うようになり、禁酒に成功する。そんなジョンの自伝を基にした物語は、彼の回想によって「自分の足で歩いた最後の日」のことが語られる。
 主人公を演じるホアキン・フェニックスは登場した時からずっと中年の小太り親父にしか見えなくて、事故当時の21歳の若々しさがないのがつらいところだが、絶望にかられて荒れるジョン、恋して嬉しそうに輝くジョン、そして漫画の才能に目覚めて自信をつけていくジョンを好演している。
 事故の前から酒浸りだった彼は実母に捨てられたという苦い記憶にさいなまれていて、母を憎みながらも母を懸命に求めている。ジョンの妄想や回想やアニメが画面に彩と動きを添えていく。しかし、事故後のリハビリや日常生活の介護の様子などは陰鬱な描写が続き、観客をつらい思いにさせるだろう。
 そんな彼が人生の転機を迎えることになったのは、禁酒会を主催する金持ちサポーター、ドニーとの出会いがあったからだ。ドニーは時に辛辣に時に優しく、そして常に静かに温かくジョンを導いていく。このジョンを演じたジョナ・ヒルは大変いい役をもらったものだ。
 そしてもう一人、ジョンの人生を明るく変えてくれたのがアヌーという美女。実際にジョンと付き合いのあった複数の女性たちのキャラクターを合体させたというアヌーはセラピストだったかと思うと次に再会するときには客室乗務員になっているという不思議な女性だ。彼女とともに車椅子で街を駆けるシーンの爽快感はこの映画の見どころの一つ。
 ラストに、彼の人生をどん底に突き落とした人々との邂逅が待っている。そこに至るまでのジョンの葛藤と和解を導いたものは何か。内なる声に耳を澄ませるジョンの内省は深い感動を呼ぶ。どんな境遇になっても大丈夫、「心配しないで」というタイトルの意味をかみしめる瞬間だ。
 ただし、実話が基になっているだけあって描写はわりと淡々としており、割と好みが分かれそうな作品である。 

主戦場

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 いまだに「論争」が続く「日本軍慰安婦問題」は捏造なのか事実なのか。疑問に思った日系アメリカ人の三十代の映像作家が肯定否定両派の人々にインタビューした記録がこのドキュメンタリーである。

その編集のスピーディなこと! 監督ミキ・デザキ本人によるナレーションの面白さもあって、2時間をまったく飽きさせることがない。

 マイケル・ムーア監督の突撃インタビューのような先入観に満ちた作品ではなく、きちんとした検証を行なおうとするデザキの真摯さが見て取れるところがこの作品の良さだ。

 歴史家の間では大日本帝国軍が設置した慰安所があったことは周知の事実であり、「あったのかなかったのか」などという論争すら無意味であるとわたしなどは思っていたのだが、「日本人はほとんどこんな問題嘘だって思ってますよね。誰も今ではそんな強制連行なんて信じてませんよね、やりっこないよね、と」と述べる公人が存在するなら、この映画も存在意味があるというもの。その杉田議員は先ごろ「子どもをつくらない人は生産性がない」という発言で物議をかもしたところだ。

 この映画では、右派と左派の人々に次々とインタビューをし、従軍慰安婦の強制連行があったのかなかったのか、彼女たちは「性奴隷」だったのかそれとも「高給売春婦」だったのか、その数は何人なのかをめぐって論じていく。

 インタビューは一人ずつ行われているから、その論者たちが平場で論争するわけではないが、あたかもアリーナで論争を繰り広げるかのようなスリルのある編集によって、「主戦場」というタイトルにふさわしい出来となっている。

 歴史修正主義者が「米国こそがこの歴史戦の主戦場だ」という言い方をして、「韓国人がアメリカを巻き込んで歴史を捏造している。慰安婦は性奴隷ではない」と非難しているのを知ったデザキが、この問題にきちんと取り組もうと考え、それまでのユーチューバーとしての作品ではなく、長編ドキュメンタリーとして製作することを決意しのが本作である。その資金はクラウドファンディングによって調達された。

 画面に映し出されるのは、論拠と資料を提示して自分たちの主張を繰り広げる人々。あるいは、「その問題は複雑なので言いたくない」と目を伏せるインタビュイー。これは、単なるインタビュー集ではなく、語る人々のしゃべり方、視線、表情を見せる映像作品として成立している。

 さらには、実写フィルムや他媒体からの借用・引用をちりばめ、エンタメ作品としても耐えうる品質を保持している。

 この映画は特定の結論をあらかじめ用意していないし、最後まで「両論併記」の姿勢を崩さない。とはいえ、どちらの言っていることが「正しい」のか、どちらの主張に心を寄せることが社会を生きやすくするのか、訴えかける力がある。ぜひその目で見てその耳で聞いて確かめてほしい。 

2018
SHUSENJO: THE MAIN BATTLEGROUND OF THE COMFORT WOMEN ISSUE
122分
アメリ

監督:ミキ・デザキ
脚本:ミキ・デザキ
撮影:ミキ・デザキ
編集:ミキ・デザキ

あなたはまだ帰ってこない

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 本作はマルグリット・デュラスの自伝小説を原作とする映画で、多くの出来事がほぼ事実であると思われる。1944年6月1日にゲシュタポに逮捕された夫ロベール・アンテルムの行方を知るためにゲシュタポ本部に日参する30歳のマルグリットの焦燥を描く。マルグリットの苦悩がありありと観客に迫り、「痛み」(原題)が伝わる映画だ。
 パリ解放の場面はいくつもの映画で見たことがあるけれど、この映画のような視点は初めてだったので新鮮さがあった(「パリは燃えているか」を未見なのが残念)。つまり、レジスタンスの側に身を置きながらもナチスとフランス警察に捕らわれていなかった左翼知識人という立場。マルグリットは冷静に世間を眺めながらパリ解放を見つめている。それはある種呆然とする風景であったようだ。ドイツ軍兵士たちが鉤十字の旗をたたんで慌ててパリを脱出する様は文字通り「敗走」にふさわしい。 
 原作の独白を多用する、いかにも小説を映画化しましたという演出はふつうならば鬱陶しいことが多いのだが、この映画ではそれが成功している。それほどマルグリットの言葉には力がある。そして、原作を忠実に演出したためなのか、しばしばマルグリットの幻想がそのまま映像化されていて、一瞬ぎくりとする場面がある。それは、マルグリットの分身が現れる場面だ。そういう場面が何度も続くと観客も慣れてしまうが、彼女の独白につづられる幻影がまた寂しくも切ない。
 マルグリットは夫の消息を知るためにゲシュタポのフランス人刑事と逢引きを重ねる。親独派の人々は間もなくドイツ軍の敗戦に終わるという噂におびえていて、マルグリットはその様子を冷笑しながら眺めている。
 1944年夏に捕らわれたロベールは1945年になっても帰ってこない。もうパリが解放されて半年以上が経つというのに、ロベールはどこへ行ったのか。強制収容所は次々と連合軍によって解放されていたのに、ロベールは帰らない。
 戦時下に疲れ果てていくマルグリットの愛もまた行方を失っていく。マルグリットにはレジスタンス同志の愛人がいて、その愛人との関係については映画の中ではほのめかし程度なのでよくわからないが、夫ロベールへの尽きない愛とともにその愛人へのどこか冷めた視線も描かれる。彼女は疲れている、すべてに。
 戦争末期に、解放の予感と喜びとともに、一方で帰らぬ夫や子どもを待つ女たちの苦悩がありありと描かれている秀作だ。しかし、最後いきなりの展開には驚いた。本当はロベールの帰還以降も描いてほしかった。
2017
LA DOULEUR
126分
フランス/ベルギー/スイス

監督:エマニュエル・フィンケ
脚本本:エマニュエル・フィンケ
出演:メラニー・ティエリー、ブノワ・マジメルバンジャマン・ビオレグレゴワール・ルプランス=ランゲ、エマニュエル・ブルデュー

リバプール、最後の恋

 4月初めにこの映画と「あなたはまだ帰ってこない」を続けて見た。どちらも女性が主人公なので、女性観客が多かった。特にこの映画は高齢女性が目立っていたね。

 観客が現実では経験できないことを女優は代わりに体現し、観客に悲喜劇を体感させてくる。そういう意味で、観客の女心をくすぐる映画なので、高得点(^^)。
 アネットが演じるグロリア・グレアムの皺やシミは半端なく多くて、こういう「老女」に恋した30歳年下の恋人の心理を知りたいものだと思った。しかし、そういうふうに思うこと自体が恋の本質を知らない者のものいいだと気づいた。恋には男女差も年齢差も関係ない。
 して、物語は。かつてハリウッド女優としての人気を誇ったセクシー女優のグロリア・グレアムも、1970年代末には出演できる映画もなくて、イギリスの小さな舞台に立つ役者の一人となっていた。そんな彼女のことを知らない若き舞台俳優のピーターは、彼女と知らずに偶然出会った女性が役者であることを知り、急速に惹かれあっていく。だがグロリアはもはや末期の癌に侵されていたのだった。。。。
 グロリアは4度離婚した恋多き女としてスキャンダルの女王でもあった。そんな彼女のことを知ってか知らずか、美しく魅力的な女性としてピーターはグロリアに惹かれていく。しかし、そのグロリアを演じたアネット・ベニングの老けぶりがすさまじくて、どう見てもおばあさんにしか思えない。おばあさんに恋する20代の若者なんて存在するのか? でもこのおばあさんがなかなかにダンスが上手でスタイルがよくて笑顔が素敵に可愛くて、そしてなによりも無邪気でわがままだ。つまり、永遠に成長しない幼女のような女性なのだ。
 そのわがまま女性が実は若き恋人の将来を慮っていたことがわかるシーンは切ない。大人の配慮で別れを決めたグロリアが、しかし最後はピーターを頼り、彼が住む「リバプールに行きたい」と連絡してきたとき、既に彼女の寿命は尽きようとしていた。
 ここで不思議なことは、ピーターの両親がグロリアの世話をかいがいしくしてくれること。ピーターは労働者階級出身であり、彼の実家はつつましい暮らしをしている。狭い家の一部屋を占領してしまったグロリアは、ピーターの母の世話になる。自分の息子が自分と同世代の恋人を連れて帰ってきたら、ふつうは仰天するよね。でもこの両親は二人とも「グロリア・グレアムのファンなの」と言ってはばからない。これが驚くべきことであると同時に感動のポイントだ。でも、「本当に愛しているなら自分の母親に介護の任せるのではなくて自分でするべきだね」と21世紀に生きるフェミニストなら言うだろう。
  本作の演出のキモは、現在の映像と過去とがシームレスにつながるというもの。ドアを開け閉めするたびに時空を飛んでいく。カメラがパンする先は過去に飛ぶ。こういう演出は「旅芸人の記録」で初めて見た記憶があるが、あの頃と比べるとずいぶんおしゃれになったものだ。
 最後は切ない。1981年にグロリア・グレアムは亡くなった。57歳の生涯は波乱に満ちていたが、最後は愛に包まれていたのであろう。うらやましくも燃え切った生涯だ。
2017
FILM STARS DON'T DIE IN LIVERPOOL
105分
イギリス

監督:ポール・マクギガン
製作:バーバラ・ブロッコリコリン・ヴェインズ
原作:ピーター・ターナー
脚本:マット・グリーンハルシュ
撮影:ウルスラ・ポンティコス
音楽:J・ラルフ

心の旅

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 強引な訴訟指揮で負け知らずの辣腕弁護士ヘンリーが、突然の事件に巻き込まれて記憶喪失となり、身体機能も失ってしまう。必死のリハビリでなんとか日常生活を送れるようにはなったが、記憶はなかなか戻らない。と同時に、かつての仕事人間だった自分に疑問を感じるようになり、家族のきずなを取り戻すことをこれからの生き方として選んでいく。という、とても感動的な話なので、手放しでほめたいところだが、ちょっとひっかかる点も否めない。

 ヘンリーは人格ごと変わってしまったわけで、それは「別人」ではないのか? そういう別人格を本当に愛せるのだろうか。人の生き直しの映画としては確かに感動的だが、過去の記憶すら失ってしまったヘンリーにとって生き直しが本人の自発的選択なのかどうかが気になる。それに、かつては本気で愛していたはずの愛人のことも忘れてしまうなんて、これもなんだか納得できない。妻より愛していた人がいたなら、その人と一緒になるのが自然のなりゆきのはず。

 その妻役のアネット・ベニングが美しい。ハリソン・フォードの演技力にも感心した。渋くてとてもかっこいい。あまりにもかっこよかったので、翌日のわたしの夢にまで出てきてしまった。リハビリ療法士のビル・ナンがとてもいい役をもらって、これは美味しいところをさらった感じ。

 いろいろ疑問に思うところはあれども、人生を生き直すという大きなテーマについては賛同できるし、ハンス・ジマーの音楽も美しいし、お気に入りの一作になりました。

 そうそう、記憶をなくしても、匂いは憶えているんだね、これはよくわかる。(Amazonプライムビデオ)

(1991)
REGARDING HENRY

脚本:ジェフリー・エイブラムス

ウディ・アレンの6つの危ない物語

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ウディ・アレンのテレビドラマは初めて見た。6話シリーズなのだが、二日がかりとはいえ、一気に見てしまった。最近では一番面白かったアレン作品。
 時代は1970年、政治の季節のアメリカでは、ベトナム反戦運動が盛り上がっている。ウディ・アレンが演じる作家は典型的な中産階級、保守的なプチブルインテリである。そしてその妻は夫婦問題専門カウンセラーで、二人はニューヨーク郊外の瀟洒な家に優雅に暮らしている。そこにある日突然闖入してきたのは、妻の遠縁にあたる若い娘、彼女は左翼過激派で、看守を射殺(?)して脱獄してきたお尋ね者である。その夜から彼の生活は一変してしまう。平和なプチブル生活を堪能していたというのに。。。。
 ここから後は左翼自虐ネタばかりの展開で、可笑しくってしょうがない。こんな話で笑うのはニューヨーク・インテレクチャルズだけだろうと思うが、ユダヤ系インテリの悲しい性(さが)が垣間見えて面白い。ウディ・アレンも年を取ったとはいえ、口ごもりながらもマシンガントークが冴えている。
 面白いことに、現在の年齢のウディ・アレンが1970年の老インテリを演じるわけだから、モデルは彼の父の世代のはず。その世代のユダヤ人の生活がどうだったのか、セリフの中でかすかに出てくる主人公の幼いころの貧民生活が今の(つまり1970年の)彼の思想の基盤となっていることがわかる。
 そして若き革命家(マイリー・サイラス)の傲慢ぶりといいプチブルぶりといい、嫌悪感しか抱かせない彼女のこ憎たらしい演技が素晴らしい。
 この作品はシーズン1しか見ていなくて、続きがあるようだが、それが配信されていないのが残念。久しぶりにウディ・アレン主演のドタバタコメディで笑わせてもらいました。要するに自虐ネタは面白い、ということで。(Amazonプライムビデオ) 
(2016)
CRISIS IN SIX SCENES
2017/03/24~
放映局:Amazonプライム・ビデオ

監督:ウディ・アレン
製作:ヘレン・ロビン
エレイン・メイ
レイチェル・ブロズナハン
ジョン・マガロ