吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ワンダー 君は太陽

 トリーチャー・コリンズ症候群という遺伝子疾患が原因となる病気の子どもが主人公。顔面が普通の子どもと違うために、オギー少年は27回も手術を受け、学校への通っていなかった。だが母のイザベルはオギーを小学5年生から登校させることを決意する。校長と面談し、友達にも紹介されてオギーは勇気を振り絞って学校へ行き始めた。大好きな宇宙飛行士のヘルメットをかぶって。そのヘルメットをとれば、見た人が驚く奇妙な顔をしているのだから。。。

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 案の定、オギーの学校生活は躓く。陰湿ないじめに遭い、友達に裏切られ、オギーは傷つき泣く。傷つくのはオギーだけではなく、姉のヴィアもまた、弟に両親の愛を奪われたと思ってストレスを裡に溜めていたのだった。家族はそれぞれに愛情豊かな素晴らしい人々なのに、それでも傷つき泣き打ちひしがれていく。それもこれもオギーの病気のせいなのだ。オギーの病気って? オギーの「障害」って? 顔がふつうの人と違うことが「障害」なのか? オギーの顔を素敵だと言ってくれる人はいないのか? いいえ、母のイザベルはオギーの顔を大好きだと心から言う。ずっと接していれば顔は見慣れてくるものだ。ましてやオギーは賢くユーモアのセンスもある素晴らしい少年なのだから。
 思春期の傷つきやすい少年少女の葛藤の物語として非常によくできている作品である。友情を裏切った友人もまた自ら傷つき後悔する。オギーのやさしさ、母のやさしさ、ひたすらな愛情が観客の気持ちを奮い立たせ、前に向かわせる素晴らしい作品。もちろん「作り話」として綺麗にまとめすぎているというきらいがなくもないが、素直に感動できる人には絶対お薦め。

WONDER
113分、アメリカ、2017
監督:スティーヴン・チョボスキー、製作:デヴィッド・ホバーマン,トッド・リーバーマン、原作:R・J・パラシオ『ワンダー』、脚本:スティーヴン・チョボスキー、スティーヴ・コンラッド、ジャック・ソーン、音楽:マーセロ・ザーヴォス
出演:ジェイコブ・トレンブレイオーウェン・ウィルソンジュリア・ロバーツ、イザベラ・ヴィドヴィッチ、ダニエル・ローズ・ラッセル、ナジ・ジーター 

万引き家族

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 6月3日の先行ロードショーで見たのに続き、7月21日に2回目の鑑賞。二回目でさらに完成度の高さに脱帽した。この上いっそう余裕をもって観賞するためには三回見る必要がある映画だ。とはいえ、そんなにハードルを上げたらいけないいけない。一回の鑑賞でも十分感動できる。わたしは一回目は涙しながら見ていたが、二回目は冷静に見ることができたので、感情を揺さぶられることがなくその代わりに理性が研ぎ澄まされる思いがした。
 巻頭、スーパーマーケットで万引きする父子の姿が映る。観客はハラハラしながらその様子を見守り、やがてまんまと盗みおおせた父子の姿にホッとする、という犯罪者への共振という事態から映画の世界へと引きずり込まれる。と思った瞬間に「万引き家族」というタイトルが現れる。上手い。
 是枝監督の脚本は緻密で隙がない。たったひとことのセリフで登場人物の過去や現在の立場・感情を観客に示す。この完成度の高さは「誰も知らない」のころから際立っており、「歩いても歩いても」では神業になっていた。本作でも背筋がゾクゾクするほど練りこまれた脚本に感動して嬉しくなる。
 万引き一家はおばあちゃんを筆頭に家族5人で暮らしていたところに、新たに一人、五歳の少女が加わる。ユリというその子は小学生の翔太を「お兄ちゃん」と呼び、すっかり一家になじんでいく。しかしこの一家が訳ありであることはかなり早くから観客に知らされる。五人で暮らしているおばあちゃんの家に来客(民生委員か?)が来て、「一人暮らしだと大変でしょ」などと言う。「息子さん、九州だっけ」などとも言う。だから、彼らの正体が種明かしされていく過程はそれほどスリリングではない。実は最後まですべてが明らかになるわけでもないのだ。なぜ彼らは大都会の片隅に一軒だけ忘れられたように建っているあばら屋に肩を寄せ合って暮らしているのか。ほんの少しの謎は残るが、多くを語らずにさりげなく見せていくその脚本と演出の見事さには、カンヌ映画祭パルムドールも当然と思える。

 この映画は日本の貧困を描き、家庭内暴力や家庭崩壊の様子をリアルに見せているので、一部の政治家は気に入らなかったようだが、「菊とギロチン」を見た後だと、大正時代のほうが今より遥かに貧しかったということに改めて思いいたる。貧困問題とはすなわち格差問題であり、社会構成員皆が等しく貧しければ貧困問題など発生しない。この映画ではその格差を視覚的に見せていく。たとえば一家のあばら屋の隣は空き地で、つまりここが地上げに失敗して取り残された土地だとわかり、その周辺は高いビルが囲んでいるため、その建物の高さの格差が明らかになる。この場面の俯瞰の巧みさには舌を巻く。この場面とはすなわち一家が隅田川の花火を見上げる場面なのだが、音だけが聞こえて花火そのものは見えない。家族が一人また一人と夜空を見上げ、その顔に光が当たる。この照明と撮影の見事さは、さすが近藤龍人撮影監督。室内の場面が多い本作で、近藤さんの技が冴える。絶対に撮影賞とれるよ、これ。
 「誰も知らない」でも本作でも感じることは、是枝さんのアナキストぶりだ。彼は国家や公的権力の介入を良しとしない。「誰も知らない」では養護施設で暮らすことを主人公の中学生が選ばなかったことを肯定的に描いているし、本作でも常識人ならケースワーカー児童福祉施設に連絡すべきだと考えるような解決方法を是枝さんは提示しない。虐待された幼女を「誘拐」ともいえるような手口で保護する主人公夫婦を是枝さんは温かい目で見つめている。警察に通報したり福祉施設に収容するのではなく、地域住民の手で子どもを育てていく。それが当たり前のやりかたなのだとさりげなく示している。つまり、権力の介在という「疎外」から遠く離れた地点を是枝さんは見ている。ただし、これは今の社会ではやはり犯罪には違いない。違いないから破綻する。
 ではラストシーンをどう考えるべきか。これはいつもの是枝節である。つまり、解釈を観客にゆだねている。いろんな人がこのシーンをどう見るか、十人十色だろう。わたしは一回目はこの映画がハッピーエンドかどうかは微妙だと思ったが、二回目にこれはハッピーエンドなのだと確信した。この物語が未来に向かって開かれているからだ。少年は「父」と決別し、その瞬間に父性愛へとなびく。愛と別れが同時に少年の胸に去来し、彼は大人になる。少女は何かを見つけて(何かを聴いて)ベランダから身を乗り出す。それは未来への投企なのだ。6歳にして彼女は実存をかけて外界へと身を乗り出す。なんという素晴らしいラストシーンだろう。これからどんな過酷な事態が待っているかもわからないが、それでも少女は未来に向かう。
 さて、この映画は労働映画でもある。主人公リリー・フランキーは日雇い労働者で、ある日、ビルの建設現場でケガをして帰宅する。「日雇いにも労災保険が下りるんだって」と妻の安藤サクラに告げるが、その後労災認定されなかったことがわかる。この場面でわたしの溶けかかった脳みそはフル回転した。業務上災害として認定されなかった理由は、「業務遂行性」と「業務起因性」のどちらかあるいは両方が成立していなかったからだろう。すると、休憩時間のケガだったのか? だとしたらあの場面がその伏線か?! などとあれこれ考えてしまった。この件、詳しい人はぜひ謎解きしてほしい。
 この映画は年金詐欺事件をヒントに作られたという。その点でももう一つ謎があって、なぜ樹木希林は年金を受け取ることができていたのか? 遺族年金か。だとしたらそれは元々誰の年金だったのか。離婚した夫の年金は受給できないはずなのに。。。。と、いろいろ話題は尽きない。先日この映画を語り合う飲み会の席上で、知人の年金機構職員がこの謎の年金問題に注目していて、大いに話題が盛り上がった。
 最後に、演技陣の素晴らしさに一言。いまさら褒めるまでもなく安藤サクラは天才である。子役二人もめちゃくちゃうまいし、目つきに感心する。リリー・フランキーの下品でやさぐれてそのくせ優しい男の情けなさも絶妙、柄本明の駄菓子屋の主人なんて最高にいいところを持って行った、という感じ。樹木希林はもはや人間国宝ですな。

 そうそう、音楽のことも語らなくては。ドップラー効果みたいな不安定な旋律がとても不思議な印象を残した。これもまた見どころ聞きどころの一つ。

120分、日本、2018
監督・脚本:是枝裕和、製作:石原隆ほか、撮影:近藤龍人、音楽:細野晴臣
出演:リリー・フランキー安藤サクラ松岡茉優池松壮亮、城桧吏、佐々木みゆ、緒形直人森口瑤子柄本明高良健吾池脇千鶴樹木希林

 

砂上の法廷

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 キアヌ・リーブズ、久しぶりにスマートでかっこいい役を演じております。今回は辣腕弁護士。地味な法廷劇で、あまり世評も芳しくなくひっそりと上映されて割とすぐに終わってしまったという印象があった作品だが、なかなか映画らしい演出がよかった。
 さてストーリーは。キアヌ・リーブズの知人の弁護士が殺害された。犯人として逮捕され裁判にかけられるのは被害者の17歳の息子。被害者の妻つまり被告の母の依頼により、リーブズ弁護士は17歳の少年を無罪にしようとするのだが、本人が一切供述せず、裁判は暗礁に乗り上げる。
 という話は二転三転し、スピーディな展開もあってぐっとつかまれていく。「すべての人間は嘘をつく」というテーゼが最後まで生きていて、なかなか面白い。証人が法廷で語る「真実」が本人の記憶とともにフラッシュバックで蘇ってくるのだが、その場面自体が真実なのかどうか観客にもわからない。何が真実なのか。法廷で求められているのは真実なのかどうか。「弁護士の仕事は真実を明らかにすることではない。依頼人の利益になればそれでいい」と、キアヌくん弁護士は言う。このセリフ、「三度目の殺人」でも福山雅治弁護士が言ってたよね、確か。イケメンは同じことを言うのかぁ。説得力あるなぁ(違)。
 被害者の妻の顔に見覚えがあって、誰だろう誰だろうと思い続けながら映画を観ていて、途中で「ひょっとしてレニ・ゼルウィガー?」と疑い始め、終わってからネットで確認して唖然。なんという老け方! 女優としての華がほとんどない、どこにでもいるふつうの疲れたおばちゃんと化している。
 まあそれはともかく、どんでん返しにはあっと驚き、なかなか先の読めないサスペンスとして楽しめた。裁判なんてそんなもの、というニヒルな描写には皮肉を感じた。(U-NEXT)

THE WHOLE TRUTH
94分、アメリカ、2016
監督:コートニー・ハント、音楽:エフゲニー・ガルペリン、サーシャ・ガルペリン
出演:キアヌ・リーヴスレニー・ゼルウィガー、ググ・ンバータ=ロー、ガブリエル・バッソ、ジム・ベルーシ

悲しみに、こんにちは

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 父母を亡くした六歳のフリダは叔父夫妻に引き取られるために都会のバルセロナから田舎へと引っ越す。巻頭のこの場面でフリダは言葉もなく荷造りの箱を見つめ、黙って車に乗り込んでいく。その深い悲しみを目元に湛え、彼女はいつも何かに耐えているような表情を崩さない。
 舞台は一九九三年のスペイン、カタルーニャ地方。山に囲まれた一軒家で四歳の従妹アナとともに遊ぶフリダのひと夏を描く。その夏休みはフリダにとって永遠に忘れられないものとなる。
 新しい家族に迎えられて自分の位置取りを探るフリダの不安を、わずかなセリフと彼女の表情によって豊かに表現した演出のすばらしさに脱帽だ。
 フリダの母の死因は何か、フリダはなぜ病院で血液検査を繰り返すのか。フリダがケガをしたら周囲が大騒ぎするのはなぜなのか。映画はなにも説明しないが、観客にはフリダの両親がエイズで亡くなったことが伝わる。だが、フリダは母の死を半信半疑で受け止め、いつか蘇ると信じてマリア像に祈っている。
 フリダとアナの二人は森に遊び水辺ではしゃぎ、バスタブでふざけ、一つのベッドで眠る。本当の姉妹のように仲の良い二人の、食べてしまいたいくらいの愛らしさに目を奪われる。
 だがどんなに仲良し姉妹でも叔父夫婦がやさしい「両親」でも、フリダは心を開けない。いつの間にか叔父夫婦をパパ・ママと呼ぶようになったが、アナと新しい両親を凝視するフリダの不安な瞳は、言葉で表現できない悲しみと孤独を表出させている。
 ほんの出来心でアナに意地悪をするフリダ。わがままや好き嫌いを言うフリダ。それはその年頃の子どもならだれもが覚えがあることだろう。同時に、年下の子どもに対する責任感もまた芽生える時期だ。
 フリダはわたしだ、と画面に向かって何度も呟きたくなるような切ない思い出が去来する。そして、フリダは決して涙を見せない気丈な子どもだということにふと気づく。
監督自身の体験をもとに作られたという本作は、個人の記憶を超えて普遍へと開かれている。災害続きの日本でも、身近な人を亡くした子どもたちが何人もいる。彼らが悲しみを解き放つためには何が必要なのだろう。その答えの一つをこの映画は静かに差し出している。
 言葉の持つ力、肌の温かさ、そして感情の放出。これらへの信頼が底流する本作は、新しい才能を世界に示してくれた。ありがとう、と言いたくなるような映画だ。

SUMMER 1993
100分、スペイン、2017
監督・脚本:カルラ・シモン
出演:ライア・アルティガス、パウラ・ロブレス、ダビ・ベルダゲル、ブルーナ・クシ

BPM ビート・パー・ミニット

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  長男Y太郎に薦められて、4月に見た映画。しかしこれは日本ではヒットしないし評価もされないだろうと思った作品。カンヌ映画祭グランプリ受賞作だけれど、万人が共感をもって受け止める感動作ではない。そもそも日本では、活動家を「プロ市民」と呼ぶネトウヨが跋扈しているのだから、この映画に登場するようなアンチエイズ運動に熱心な同性愛者という立ち位置そのものが受け入れられにくいだろう。
 物語の舞台は1990年代初めのフランス。エイズ患者への差別や偏見と闘う“ACT UP - Paris”という市民団体に集う人々(多くが同性愛者の若者)の活動をドキュメンタリータッチで描いた。監督と脚本を担当している二人がこの団体の活動家でもあったので、描写が実にリアルで、Act UPの例会(集会、ミーティング)の場面は実際の記録映像かと見間違えたほどだ。彼らは定期的に夜に集まり、どうやって啓蒙活動や集会・デモを組織実行するのかを話し合い、製薬会社糾弾闘争や裁判についても話し合う。そのルールは「拍手はしない、賛意を表明するには指を鳴らす」といった独特のもので、いろいろと興味深い。 
 だが、製薬会社への抗議行動は過激であり、製薬会社の社員を呼びつけて糾弾(吊し上げ)する様子は眉を顰めるような事態だ。かつて日本では1970年前後に学生たちが火炎瓶を投げ、街頭闘争を敢行していたのだ。あれに比べればずいぶんおとなしいものなのに、それでも今の日本の状況からみたら直接行動主義が「過激」に見えてしまう。なんだかとても不思議な気分に陥った。なんでこの程度の行動が「過激」に見えてしまうのだろう。彼らが投獄をものともせず直接行動に決起すること自体は理解できる。エイズに罹患している本人にしたら、日々命を削って社会運動を行っているわけだし、焦る気持ちはとてもよくわかる。彼らのやり方は、「多くの人の共感を得る」ための行動ではなく、「少しでも目立ってマスコミに取り上げられる」ことが大事だということなのだろう。文字通りデモンストレーションなのだ。 
 主人公のショーンは二十代の若者だがHIV陽性であり、いつ発症するかわからないという恐怖と闘う日々でもある。そんな彼がこの運動を通じて新しい恋人(もちろん男)を得た。そのベッドシーンがなかなか強烈なので、わたしはどぎまぎしてしまった。やがて彼はエイズが進行して余命いくばくもない状態となる。徐々に弱っていくショーンの姿を見ているのは観客にとってもつらい。これは「闘う難病物」と言えるジャンルの映画だ。患者やその家族、患者になるかもしれない当事者たちが、自分のために闘う。その姿は尊いと同時に、当事者同士の利害が一致せずに対立に発展する場面もあり、この運動が一筋縄でいかないこともリアルに描写されていた。
 いま、日本の若者は自分のために闘っているだろうか。非正規雇用、貧困、病気、さまざまな困難に直面している人々は自分のために闘っているだろうか。もちろん闘っている人々がいないわけではない。でも多くの若者が、誰かが助けてくれるのを待っているだけだったり、愚痴を言い合うだけだったり、果ては中国人や韓国人のせいにしたりしていないだろうか。ほんの二十年ほど前のフランスの闘いを見て、学ぶことは多くあるはず。

 と同時に、悲しく切ない別れもまたそれすらが「政治的死」でありたいと主張する「活動家魂」そのもののようなショーンには、戸惑いも感じる。わたしはこの映画に百パーセントの共感を持つことはできなかったし、どこか冷めた目で見ている自分を見つけてそのことにも少しの驚きを感じた。居心地の悪さと違和感が後に残る、しかし画面から目を離すことができない、そのような、観客に問いを突き付ける大きな力のある作品だ。

BPM (BEATS PER MINUTE)
143分、フランス、2017
監督・脚本:ロバン・カンピヨ、共同脚本:フィリップ・マンジョ、撮影:ジャンヌ・ラポワリー、音楽:アルノー・ルボチーニ
出演:ナウエル・ペレス・ビスカヤール、アルノー・ヴァロワ、アデル・エネル、アントワーヌ・レナルツ、フェリックス・マリトー

 

菊とギロチン

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 大正デカダンの時代、関東大震災直後の混乱した関東地方に女相撲の一座がやってきた。それを見た若きアナキストたちのグループ「ギロチン社」の一行は女相撲の虜になり、彼女たちと行動を共にしようとする。大正時代末期の猥雑でエネルギーにあふれた人々の狂宴を、「今作らなければ」という瀬々敬久監督が史実と虚構を交えて描いた大作だ。3時間を超える上映時間が短く思えるほど、波乱万丈の彼らの動向に目が釘付けになる。
 ギロチン社、古田大次郎、中浜鉄(哲)、黒パン、小作人社、、、といった大正アナキズムの文献は当エル・ライブラリーが所蔵している資料であり、なじみがあるが、わたしはそれらを執筆した人物については生身の人間としての感触をもてなかった。彼らに血と肉が付き、生き生きと動き出して笑ったり怒ったりわめいたりする様子を画面から受け取ることのなんという快感! これが映像の力なのだ。
 女相撲という興行と、実在したアナキストたちを組み合わせるという驚くべき発想で練られた本作は、瀬々監督が二十代のころから温めていた題材なのだという。革命だ、世界を変えるんだ、自由平等な社会を築くんだ、と理想だけは高いが、その実彼らのしていることは「リャク」(掠奪)と称する、企業への強請りタカリであり、強奪した金を酒と女郎屋につぎ込む自堕落な生活。詩人の中浜は文才だけはあるが、アジビラを書き散らしては銀行強盗だの恐喝だのを繰り返し、挙句に梅毒に感染する。この中浜を演じた東出昌大が一皮むけた演技を見せてくれて、ほんとにどんどんうまくなるよ、素晴らしい。古田大次郎を演じたのは寛一郎という新人俳優。誰かと思えば佐藤浩市の息子だそうな。非常に繊細な役をイメージそのままに演じていて、これは監督の指導がよかったんだろうと思わせるものがある。

 映画は巻頭からしばらくはギロチン社の若者たちのパワーが強すぎてセリフが聞き取りにくい部分があり、さらにカメラが微妙に動いて見づらい。しかしこの若干の苦痛を乗り越えると、もう後は目くるめく映像世界へと引き込まれていく。要するにギロチン社のアホみたいな革命ごっこへの違和感が消えていくのだ。あほみたいだけれど命懸けで革命を夢見ていた大正期のアナキストに、出来の悪い息子を愛するように監督が愛情を注いでることが見て取れる。そして、ギロチン社はおれだ!と世界の中心で叫んでいるこの映画についていけるかどうかの分かれ目が到来する。

 やがて主演はギロチン社じゃなく女相撲の新人花菊であることが判明する。彼女は夫の暴力に耐えかねて家出し、女相撲の一座に入門した。「強くなりたい」というその強烈な願望は、この時代の女たちの腹の底から出た思いだろう。

 女相撲一座の巡業についていくギロチン社の中濱鐵と古田大次郎は、それぞれが力士に惹かれていく。中濱が惚れた相手は朝鮮からやってきた元遊女の十勝川。純情な古田はあどけなさの残る花菊に惹かれるが、遊び慣れている中濱と違って花菊に近づくことができない。後半、この二組のカップルの行方がどうなるのかと固唾を飲んで見入ってしまう。
 3時間の映画にはいろいろ見どころがあって、言わずもがな、相撲興行は大変興味深い。一座は町や村を巡り、宣伝のために鳴り物入りで練り歩いていく。その様子や、土俵入り、歌(甚句)、といったフォークロアの部分が映画で初めて見るものばかりで、よくぞ時代考証ができたものだと感心する。女相撲はまた「エロ」と眉を顰めて語られ、風紀紊乱の咎によって常に警察の臨検・上演中止にあっていた。そのような時代の匂い、また大正から昭和へと向かい、社会運動が大弾圧を受けて軍部が暴走する時代へと移り変わる様相がこの映画の中でもしっかりと描かれている。「天皇陛下万歳」の連呼はやや過剰演出に見えるが、映画は後半になるにつれ暴力が横溢し、血濡れたものとなり、不気味な「天皇陛下万歳」がこだまする。中濱鐵が「満州に差別のない平等な社会を作る」と目を輝かせて語るとき、その後の歴史を知っているわたしたちは、満州国建設が五族協和の名のもとに押し進められたことを想起する。アナキストの夢はかくして大日本帝国にからめとられていく。。。。
 アナキストを描いた本作こそがまさにアナーキーな力に満ち、コメディタッチからアクションやスリラーまで縦横な作風で観客を魅了する。音楽も印象深く、朝鮮の伝統芸能である農楽も取り入れられて、画面に力強さとリズムを付加している。浜辺で女相撲の一行が踊りに興じるシーンは名場面の一つと言えるだろう。
 わたしの友人がエキストラで農婦役で登場するというので、どの場面なのかと一生懸命目を凝らしていてとうとう分からなかった。肝心の主人公たちそっちのけで画面の背後のほうばかり見ていたから、疲れてしまった(苦笑)。彼女の顔は識別できなかったが、最後にクレジットされていた出資者一覧のなかにその名があったのが嬉しかった。そう、この作品は製作会社が資金を提供しなかったため、カンパを集めて作られた自主製作映画なのだ。こういう破天荒な映画がなかなか作られない日本映画界に寂しさを感じるが、ともあれ完成したことは慶賀かな。あとは一人でも多くの人に見てほしい。

189分、日本、2018

監督:瀬々敬久、脚本:相澤虎之助、瀬々敬久、撮影:鍋島淳裕、音楽:安川午朗
ナレーション:永瀬正敏
出演:木竜麻生、東出昌大寛一郎韓英恵、渋川清彦、山中崇井浦新大西信満嶋田久作菅田俊

 

 

グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札

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 王室ものというのはある意味手堅くヒットが狙えるから映画にしやすいんだろう。とりわけグレース・ケリーのようなシンデレラ物語となった美しすぎる女優・王妃の物語なら当然、絵になります。ニコール・キッドマンはかなり雰囲気が似ているし、背が高くてスタイルがよいから何を着ても似合う。美しい。王宮も素晴らしい。というわけで、目の保養になりました、というだけだったような気がするが、彼女が国王の政治に口出しをして夫である国王から「子どもたちの世話をしろ!」と怒鳴られるシーンがなかなか迫力あってよかった。やはりどこの王室も女は黙ってろという時代だったのだ。今だってそうだもんね、特に日本は。
 それにしても全く知らなかった事実は、モナコが事実上フランスの保護下にあるということ。ガスも電気もインフラはフランスから供給されている。これでよく独立国のメンツが保てると不思議だ。そこに王家の内紛もからみ、結構サスペンスフルにお話は進む。どこまで史実なのかはよくわからないが、ヒチコックがいつまでもグレース・ケリーに執心して映画出演のオファーをかけていたというのが面白い。
 人間模様の描写はそれなりに興味深く、海運王オナシスやその愛人だったマリア・カラスが何度も登場するなど、有名人のわき役も個性があって映画的なきらめきがあるのだが、肝心のグレース公妃の一世一代の演説がなぜモナコを救ったのか、理解できなかった。ヒチコックの「マーニー」製作の裏話としては面白かったけどね。(U-NEXT)

GRACE OF MONACO
103分、フランス/アメリカ/ベルギー/イタリア、2014
監督:オリヴィエ・ダアン、脚本:アラッシュ・アメル、音楽:クリストファー・ガニング
出演:ニコール・キッドマンティム・ロスフランク・ランジェラパス・ベガ、パーカー・ポージー