吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

タクシー運転手 ~約束は海を越えて~

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 1980年の光州事件を世界に向けて報道したドイツ人ジャーナリストを、ソウルから光州までの乗せて走ったタクシー運転手の実話を基にした作品。
 光州蜂起が起きたとき、私は大学4回生で、ちょうど文学部学生大会の時期であった。光州蜂起を支持し韓国民主化運動に連帯しようという特別決議案8000文字を一晩徹夜で書きあげて謄写版印刷した日の夜明けのことを思い出す。朝の大学構内に入る前に「毎日新聞」だったか、新聞を読んだ。そこには民衆が蜂起してトラックに若者たちが乗り込んで気勢を上げている写真が写っていた。朝ぼらけの薄暗い中、その大見出しのトップ記事を興奮して読んだことを覚えている。
 その後、文学部では学生大会が成立してストライキに突入した。その年の12月には金大中氏への死刑判決に抗議して全学集会を開いて教養部のバリケードストも行った。そんな特別な思い出がいろいろと去来する光州事件である。
 さて、物語は。
 父子家庭の父親であるキム・マンソプはタクシー運転手として日々の糧を稼いでいた。民主化運動が激化するある日、光州までの報酬が10万ウォンという高額なのにつられて、他人の仕事を横取りしたキン・マンソプはドイツ人記者を乗せて走ることとなる。陽気なマンソプは学生運動に否定的で、社会的関心も薄いごく普通の運転手だったが、やがて到着した光州でとんでもないことが起きていることを知り、愕然とする。動乱に巻き込まれたマンソプは無事にソウルに戻れるのか? ドイツ人記者は稀代のスクープを世界に伝えることができるのか?
 という、サスペンス。最初はコメディの様相を見せた映画だが、いつしか危機感あふれるサスペンス、アクションへと変わっていく。当時の光州の様子が非常にリアルに描かれて手に汗握る攻防戦が展開する。名もなき市民が銃を持ち、戒厳軍に立ち向かう様は震えを覚えるほどだ。
 同胞に対して「アカめ!」と平気で銃を向ける兵士たちの姿は朝鮮戦争時を彷彿とさせる。いまだに北朝鮮が送り込んだ扇動部隊が光州事件を起こしたという陰謀説がまことしやかにネットで流れるのだから、真相究明までには実はまだ遠い日々なのかもしれない。

 この映画では保守的なオヤジであった運転手キム・マンソプがいかにして変わっていくのかが見どころとなる。ソン・ガンホがいつものようにユーモラスなちょっと大げさな演技をして見せるかと思うと、光州市内に入ってからの彼は戒厳軍の暴力という事実を目撃することによって自己変革を遂げる運転手役を誠実に感動的に演じている。韓国映画はとかく大げさな演出で辟易することも多いのだが、この映画ではラスト近くのカーチェイスを除けばさほどの盛り盛り感もなく、光州のタクシー運転手たちの団結心の素晴らしさに胸が熱くなる。こういう非常時には人間の本性が出るもので、それまで政治に興味がなかったオヤジさんたちも、学生たちが目の前で命を落としていく様子を見れば、人は変わるのである。
 この作品に対して、ドイツ人記者の視点が描けていないという批判は当然のことと思う。わたしも映画を見ている途中でとても不思議なことと思ったのは、彼がいつも「蚊帳の外」にいるように見えたことだ。それは実際のところ事実だったのだろうから否定のしようがないのかもしれない。だから、本作があくまで韓国人運転手の主観描写に徹底していることじたいは非難されるようなことではないだろう。ただ、ドイツ人記者の視点を入れれば、もっと視野が広がって深い作品になったであろうことは容易に想像できる。
 驚くべきことに、本作が公開されて映画を観た運転手の遺族が名乗り出たことだ。映画の設定とはかなり異なって、運転手は金に困ってドイツ人を乗せたわけではないことも判明しているという。https://kban.me/article/7423
 とまれ、多くの人にみてもらいたい作品。 

A TAXI DRIVER
137分、韓国、2017
監督:チャン・フン、製作総指揮:ユ・ジョンフン、脚本:ウム・ユナ、音楽:チョ・ヨンウク
出演:ソン・ガンホトーマス・クレッチマン、ユ・ヘジン、リュ・ジュンヨル、パク・ヒョックォン

 

マルクス・エンゲルス

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 二人の出会いから「共産党宣言」が書かれるまでを描く、青年マルクスエンゲルスの物語。今年が生誕200年になるのを記念してカール・マルクスを主人公に映画を作ってみました、というもの。ひょっとしてマルクスが主人公の映画って初めて見たかも。これまで作られてこなかったのだろうか。プルードンバクーニンも登場するから、もうそれだけでついつい興奮してしまうわたくし。
 こういう時代劇はわたしの大好きなジャンルで、当時の紡績工場の内部や機械、さらには「共産党宣言」が印刷機にかけられて刷り上がっていくシーンなどはゾクゾクする。「ペンタゴン・ペーパーズ」の輪転機にも興奮したが、こちらはさらに100年以上前の機械が動いている。いったいどこの博物館から借りだしたのだろう、と興味深い。「共産党宣言」を入稿する直前の作業は夜を徹してマルクスエンゲルス、それぞれの妻によって清書されていく様子が印象深かった。彼らはランプを使わずに蝋燭の灯りで本を読んだり書いたりしている。映画全体がととても暗いのは室内の描写が多いからだ。この時代は鯨油に代わって石油ランプが登場するころのはずなのだが、マルクスたちはランプではなく暗い蝋燭を使っている(この描写で現代メディア史の佐藤卓己先生の講義を思い出した。非常に興味深い読書の歴史を教えてくださったのだが、既に忘れている(;'∀'))。彼らはそれだけ貧しかったということなのだろう。

 共産主義者同盟(ブント)を結成する場面が本作のクライマックスであり、胸が熱くなってしまった。その時の弁士はマルクスではなくエンゲルスだ。エンゲルスのほうが演説がうまかったのだろうか。党大会でそれまでの穏健主義から共産主義へと脱皮することに賛成した多数派はみな労働者であった。 
 しかし、世の中は資本家と労働者の二大階級対立しかないと単純化できた時代は遠く200年近くも前の話。今やそんな時代じゃないのだ。彼ら二人が残した思想がその後どんな悲劇を生んだか、知らずに死んで幸せだったかもしれない。マルクス主義じたいは間違っていないかもしれない(わたしには判断できない)が、この映画を観る限り、マルクスは独善的で独裁的な素地を持った人間である。彼らの「息子たち」がやがて全体主義国家を構築したのもむべなるかな。デリダの『マルクスの亡霊たち』『マルクスと息子たち』を読み直してみたくなった。
 映画に登場する「ライン新聞」の現物が法政大学大原社会問題研究所に所蔵されている。大原社研には『資本論』初版も3冊あって、そのうち一冊はマルクスの署名入り。「稀覯本中の稀覯本」と同研究所のWEBサイトで紹介されている。こういうものをついありがたがるわたしもやっぱりマルクスの息子なんだろうか。
 そうそう、マルクスって身体が弱かったんだ。痛飲したら二日酔いになってなかなか立ち直れなかったらしい。だからエンゲルスより早死にしたんだね。飲みすぎはよくないと肝に銘じました。

 閑話休題

 青年マルクスを演じたアウグスト・ディールは40歳を過ぎているから、とても二十代には見えなくて、じじむささが目に付いて苦しかった。エンゲルスのほうはまだしも若さがあったのだが、キャンスティングは理解に苦しむ。一方、彼らの妻を演じた女優二人はとても魅力的で、役柄の上でも夫たちと対等に議論を交わし、彼らの著作の清書に携わるところが現代的な解釈である。マルクスの妻イェニーは貴族出身で、一方エンゲルスの妻はアイルランド出身の労働者。出身階級の差を感じさせない二人の賢明な女性の姿が神々しかった。

 映画のなかではドイツ語・英語・フランス語が飛び交う。マルクスはドイツを追放されてヨーロッパ諸国を転々としていくわけだから、自然と数か国語に堪能になるのだろう。しかし、映画の中では「上手だ」と褒められていたフランス語は実はひどくドイツ語訛りで、とても聞いていられないというのが映画を観たフランス人の意見である。それはともかく、マルクスは故国を追われてイギリスで亡くなっているし、墓もイギリスにあるのだが、映画の中では郷愁に悩まされている様子がない。やはり労働者には祖国がないということだろうか。

 と、とりとめもないことをあれこれと思いながら見つ、見終わってからも反芻してはエンゲルスの人物像についてWikipediaで読んで好色漢であったことを知り、マルクスの隠し子とどっちがひどいのか、などとあれこれ楽しめる、一粒で何度もおいしい映画でした。

LE JEUNE KARL MARX
118分、フランス/ドイツ/ベルギー、2017
監督:ラウル・ペック、製作:ニコラ・ブランほか、脚本:パスカル・ボニゼールラウル・ペック、音楽:アレクセイ・アイギ
出演:アウグスト・ディール、シュテファン・コナルスケ、ヴィッキー・クリープス、
オリヴィエ・グルメ、ハンナ・スティール

光の旅人 K-PAX

 長さをまったく感じさせない、隙のない演出。ストーリーでぐいぐい押していく異色のSFだ。CGなんて一切必要ない。
 ある日突然ニューヨークの駅頭に現れた男は自分のことをK-PAX星人だと名乗る。精神病院に収容されて治療の対象となるが、その言動が常識を超えて、本当に宇宙人かもしれないという疑惑が周囲の人々を興奮させたり困惑させる。その宇宙人プロートの主治医であるマイケルは、不思議に思いながらも、理知的で穏やかなプロートに魅かれていく。ついにある日、催眠療法でプロートの過去を探っていくことになった。そして判明する、プロートの本名とその悲しい過去が。
 病院の患者たちはみな素直にプロート宇宙人説を完全に納得し、プロートが星に戻るときに一緒に連れて行ってもらおうと必死にアピールするところがとてもかわいい。プロートの数々の不思議な言動や理屈で説明できないところから見ると、宇宙人に違いないという疑惑が大きく募る。物語は、彼が本当に宇宙人なのかどうなのかという興味と謎で観客を引き寄せる。プロート自身のキャラクターの良さもあって、もうこの人、宇宙人認定一号! と叫びたくなるよ。K-PAX語をしゃべり、バナナを皮ごと食べるケビン・スペイシーの熱演ぶりにも唖然。
 人と人のつながりや絆、そんなものがないK-PAXの平和な社会の様子を聞くだに、家族なんてあるから人は争ったり物を欲しがったりするんじゃないかと思えてくる。でも、自分がいなくなっても誰も寂しがってくれない、というのも超寂しい。結局のところこの映画は、家族を大事にしようねという説話だったようだが、そんなふうにきれいにまとめるのも面白くない。K-PAXには家族という概念がないのだから、そんな星に行ったところで、家庭を求める人間の癒しにはならないのだ。けれど、それが心地いい世界もあるよ、ということではないか。これは価値観の多様性を極端に提示してみせた寓話なのだ。
 ネット検索の場面でGoogleではなくYahooを使っているところが2001年という時代を感じさせる。もっとも、YahooのサーチエンジンGoogleを使っていたから同じことなんだけどね。
 さて、彼は本当に宇宙人だったのかって? 決まってるやんか、彼はK-PAXに帰ったんです。借り住まいしていた人間の肉体を残していったけどね。エンドクレジットの後にワンカットあったなんて知らなかった。ネットで読んで慌てて見直したよ。ほらね、やっぱり、マークだって待ってるんだよ、再会を(笑)。(レンタルDVD)

K-PAX
121分、アメリカ、2001
監督:イアン・ソフトリー、原作:ジーン・ブリュワー、脚本:チャールズ・リーヴィット、音楽:エド・シェアマー、歌:シェリル・クロウエルトン・ジョン
出演:ケヴィン・スペイシージェフ・ブリッジス、メアリー・マコーマック

ボストン ストロング~ダメな僕だから英雄になれた~

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 2013年のボストン・マラソンで起きた爆弾テロ事件の被害者の「その後」を描く。同じ事件を描いた「パトリオット・デイ」が犯人を追う警官を主人公にしたサスペンスだったのに対して、こちらは事件そのものよりも、両脚を失った主人公がいかにして苦しみから立ち直っていったか、その過程を丁寧に描いている。「パトリオット・デイ」はフィクションがかなり混じっているようで、映画的に面白いのはそちらなのだが、本人の手記を元に作られた「ボストンストロング」の方がリアリティがある。
 とはいえ、実話だけにドラマティックな展開がまっているわけでもなく、奇をてらった演出があるわけでもなく、スタイリッシュでもないので前半少々もたついて退屈だ。ドラマティックじゃないと書いたが、爆弾で両脚を吹き飛ばされるなんていう大事件に遭遇する人はそうそういないわけで、ここが物語の出発点なのだから、それ以上の山あり谷ありは望めないのがふつうの人の人生だ。
 小さなアパートに住む母子家庭のジェフは、コストコで働くごくふつうの労働者だった。少々だらしないところがあって、恋人には愛想をつかされてしまった。しかし、別れた恋人エリンとよりを戻したい一心で、彼女がボストンマラソンに出走するのを応援に行こうと決意する。それが彼の人生を一変させることになるのだ。ゴール間近で二度の爆発が起こり、応援中の観衆のうち3人が死亡、282人が負傷するという大事件が起きる。ジェフは両脚を吹き飛ばされ、膝の上から切断することになった。家族や親族一同が病院に集まって事態を見守っている。離婚した両親もこの時ばかりは一緒にジェフを案じて涙に暮れていた。エリンもまた責任を感じて病室の片隅にひっそりと佇んでいる。
 「ボストンストロング」という言葉は、爆弾事件の直後からTwitterで拡散したスローガンである。ジェフは重傷を負いながらも犯人を目撃していたことを警察に証言し、英雄として祭り上げられる。母親は舞い上がり、エリンは戸惑い、本人は心身ともに傷ついて苦しんでいる。この三者がそれぞれなりに立ち直り、ぶつかりあいながらも関係を深めていく様子がじっくりと描かれる。

 やはり事実をそのまま描くとあまり山場のない話になるのだろう。それでも、エリンとジェフの母との嫁姑の対立みたいなセリフの応酬や、ジェフの友人たちとのふれあいなど、とてもリアルな場面は心に残る。特に、母親が酒浸りなのには苦笑してしまったし、ジェフもタイトル通りに心が弱くてダメな人間である。実在の人物をこんな風に描いて本人たちからクレームが出なかったのかと心配になるぐらいだ。
 ジェイク・ギレンホールはちょっと暗すぎるし、青年には見えない老け顔なのでイメージが合わないのだが、素直に作られた本作はなかなかよかった。

STRONGER
119分、アメリカ、2017
監督:デヴィッド・ゴードン・グリーン、製作:トッド・リーバーマン,ジェイク・ギレンホール、原作:ジェフ・ボーマン、ブレット・ウィッター、脚本:ジョン・ポローノ、音楽:マイケル・ブルック
出演:ジェイク・ギレンホール、タチアナ・マズラニー、ミランダ・リチャードソンクランシー・ブラウン、カルロス・サンス

蝶の眠り

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 韓国人監督が脚本を書き、日本でロケしたラブストーリー。ヒロインがアルツハイマー病を発症しているという設定は韓国映画私の頭の中の消しゴム」と同じだが、こちらはヒロインの年齢が高く、すでに五十代になっている。主役の中山美穂はあまりにもスタイルがよく顔も美しく、とても五十代には見えない(実際彼女は四十代)ので、年下の青年との恋愛も無理なく説得力がある。「私の頭の中の消しゴム」と同じく本作もアルツハイマー病の女性が美しく撮られすぎているのが気になるが、「愛の記憶の物語」として、そして本をめぐる物語として、本の好きな人間の琴線に触れるものがある。
 主人公涼子は非常勤講師を引き受けた大学の教え子と恋に落ちる。彼は韓国からの留学生で、日本文学を愛し、作家になることを夢見ている。歳の差を乗り越えて二人は愛し合うが、涼子のアルツハイマー病が徐々に進行していく。タイトルの「蝶の眠り」は、蝶が羽を広げたように手を上に上げて無防備に眠る姿を示す韓国語だ。涼子はそのようにあどけない姿で眠っている。それがまた年下の恋人の心をくすぐるのだ。
 この映画には観客の心をつかむ魅力がいくつもあり、その一つが涼子の家だ。建築家の自宅を借りてロケしたというその家の、世界に向かって開かれた風情が落ち着きをもたらす。そしてもう一つ。涼子の着ている服が素晴らしくおしゃれ。中山美穂が見事に着こなしていて、ため息が出る。
 本作はまた図書館映画でもある。作家である涼子の家には大量の本が書架に並べられている。それは著者別・年代別に整序され配架されているのだが、涼子はそれが気に入らない。どこにどの本があるのかわかってしまうのは新鮮な感動がない。思い切って配架を色で分けてしまおう。なんという斬新な試み。そんなことをしたらどこにどんな本があるのかわからないし、探せない。でもそれがいいのだ、と涼子は言う。本との思わぬ出会いはときめきを生む。そこには、本に恋した女の密かな喜びがあるのだ。
 劇中劇として登場する小説のタイトルは『永遠の記憶』、これが映像として繰り広げられると「夏の終り」(瀬戸内寂聴原作、熊切和嘉監督、2012年)を想起させる。チョン・ジェウン監督が「夏の終り」を参照したのかオマージュを捧げたのかどうかはわからないが、昭和前半の雰囲気を漂わせている点が似ているし、「永遠の記憶」のヒロインが植物の画を描いているところも「夏の終り」のヒロインの染織作家という職業を彷彿とさせる。この気だるい劇中劇が映画全体の雰囲気を一層ファンタジーめいたものにしている。そう、この作品はリアリティを追い求めてなんかいない。ひたすら映画的に美しい物語を紡いでいるのだ。

 綾峰涼子が説く小説論に説得力があるのかどうか疑問に思ったが、それは彼女の持論、つまりチョン・ジェウン監督の持論なのだろう。中山美穂のファンには特にお薦めの、切なくて心が洗われるラブストーリー。

112分、日本、2017
監督・脚本:チョン・ジェウン音楽監督新垣隆、ストーリー: 藤井清美、エンディングテーマ曲: 根津まなみ『朝焼けの中で』、劇中小説: 藤井清美

出演:中山美穂キム・ジェウク菅田俊永瀬正敏

君の名前で僕を呼んで

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 映画的至福の時、というのはこの映画を観ている瞬間を指す。これほど、見ていることが幸せでたまらない映画というのも少ない。1983年の北イタリアを舞台にした美しき青年たちの恋。ただそれだけが描かれているのに、この豊穣の光と水と心地よい会話の流れる風と緑の風景に心が洗われていく。もうこれほど、「恋」以外に描いているものがなにもないという潔さが素晴らしい。時代が1983年というのも、わたしの青春時代に重なる点が個人的にもポイントアップ項目。

 アラン・ドロン →ケヴィン・コスナー →マイケル・ファスベンダー →アーミー・ハマー と、各世代にわたしのアイドルがいて、本日は最も若いアーミー目当てで映画館まで行ってまいりましたよ~。月曜の昼間だというのに、なんでこんなに観客がいっぱいいるんでしょ。しかも若い女子が目立っております。 
 夏休みを過ごす田舎の古い邸宅には、大学教授の父親と美しい翻訳家の母、さらに美しき17歳の少年エリオがいて、彼らのもとに、6週間だけ滞在するインターン大学院生のオリヴァーがアメリカからやってきた。長身で美しく賢い青年オリヴァーは自信たっぷりの横柄な態度を見せ、エリオは反感を感じる。だがやがて互いに惹かれあうようになった彼らは、おずおずと禁断の恋の流れに身を任せていく。陽光あふれる美しい北イタリアの夏もやがては終わる。夏の終わりとともにオリヴァーはアメリカへ帰国するのだ。二人の別れの時は迫ってくる。。。。
 美しき青年たちはいつも短パンを履いて長い足を惜しげもなくさらしている。さらにしょっちゅう上半身裸になる。どんな観客層を狙っているのか一目瞭然ぶりが微笑ましい映画だ。案の定、映画館は女子高校生(か、女子大生)だらけ。
 そして二人の移動手段は基本的に自転車だ。ケータイのない時代だから電話は固定だし、伝言はメモや手紙を残す。いいねぇ、この感じ。エリオは貪るように読書の日々を過ごしているし、オリヴァーも優秀な学生だが、どうにも二人はあまり勉強しているように見えず、いつでも自転車に乗って野山を駈けているか川で泳いでいる呑気なバカンス人種にしか見えない。エリオはピアノに向かって作曲の勉強をしているから、音楽科の学生なのだろうか。エリオの家庭の中では英語とイタリア語が普通に交わされ、近所の女友達はフランス人だから彼女とはフランス語と英語でしゃべっている。このハイソな感じはいったい何? 典型的なユダヤインテリ家庭なのだろうと思わせる設定だ。
 エリオとオリヴァーがどちらもユダヤ人であることも二人が惹かれあう要因なのだろう。ダビデの星のペンダントをキラリと輝かせるオリヴァーの胸元が眩しくエリオの瞳を差す。やがてエリオもオリヴァーを真似てダビデの星のペンダントを着けるころにはもう、二人の恋心は決まっている。しかし、それでも二人はなかなか告白しない。ゆるりゆるり、そろりそろり、おずおずと近づいていく。決して無理はしないし、躊躇いがまた気持ちを駆り立てていく。なんてすばらしくゆったりとした関係性なのだろう。ベッドシーンがまた絵に描いたように美しくて。先月見た「ビート・パー・ミニット」のハードな男性同士のセックスシーンで免疫がついたおかげで、「君の名前で」のベッドシーンがとても柔らかくおしとやかに見える。

 最初から最後まで画面に映っているものがひたすら美しく一瞬一瞬がすべて絵画になるような、そんな映画、見終わった途端にもう一度見たいと心から思う、そのような映画だった。ああ~、たまりません。

CALL ME BY YOUR NAME
132分、イタリア/フランス/ブラジル/アメリカ、2017
監督:ルカ・グァダニーノ、原作:アンドレ・アシマン『君の名前で僕を呼んで』、脚本:ジェームズ・アイヴォリー、撮影:サヨムプー・ムックディプローム
出演:アーミー・ハマーティモシー・シャラメマイケル・スタールバーグ、アミラ・カサール、エステール・ガレル、ヴィクトワール・デュボワ

アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル

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 フィギュアスケート選手のナンシー・ケリガンが襲撃された事件のことは覚えていたが、「真相」なるものは知らなかったし、ましてやトーニャ・ハーディがその後どうしているかもまったく興味がなかったのだが、アカデミー賞効果は絶大で、トーニャの鬼母を演じたアリソン・ジャネイ助演女優賞を獲ったとか主演のマーゴット・ロビーもノミネートされていたとか聞くと、つい見たくなる。
 結論からいうと、実に面白かった。編集と撮影が見事で、マーゴット・ロビーもスケートの猛特訓の成果を存分に見せているし、大変よろしい。でも映画館では大きな鼾をかいているおじ(い)さんがいたのが耳障りだった。 
 映画は、事件の関係者たちがインタビューに答えていく場面と過去の再現ドラマの組み合わせで真相をあぶりだすという仕組み。セリフが笑えるし、会話の間合いが絶妙で、トーニャの母の強烈なキャラクターが夢に出てきそうなほど可笑しい。下品で暴力的で利己的な母に育てられたトーニャは、スケートの才能を母に貪られたわけだが、母の言い分は逆だ。母子家庭の貧しい家計はみなスケート代に消えたと怒っている。彼女はいつも怒っている。
 インタビューはフェイクというか、実際のインタビューを俳優が再現しているのだが、当事者たちの言い分の食い違いが面白く、編集が上手いのでサクサクと進む話のテンポがよい。懐かしいポップミュージックもユーモラスで、テンションを高める効果をあげている。ただし、主演のマーゴット・ロビーは老け顔なので、15歳を演じたときはさすがに苦しかった。DV男と結婚して、別れたりくっついたりと忙しい日々を過ごすトーニャは、高校も中退してスケート一筋の生活を送っていた。やがて全米チャンピオンになり、アメリカ人で初のトリプルアクセルを跳んだ女性になる。彼女の氷上シーンはダイナミックで、迫力あるカメラの動きに爽快感があふれる。よくぞ滑れるようになったもんだと驚くばかりのマーゴット・ロビーの頑張りぶりだ。さすがにトリプルアクセルはCGらしいけど。 
 この事件の真相が映画に描かれた通りだとすると実にバカバカしい。頭の悪い人間が集まると、文殊の知恵ならぬ幼稚園児の暴走みたいな犯罪が生まれる。貧困、暴力、上昇志向、怠惰、いろんな否定面が混ざり合ってこの事件は起きた。そして一人の才能あるスケーターは競技人生を永久に奪われてしまった。彼女自身の責任もあるだろうし、母親の育て方が大問題だったという指摘も可能だが、本を正せば誰が悪かったのだろう。鬼母だって彼女自身の鬼母に育てられたのだろう。暴力は連鎖するとはこのことか。誰もがトーニャのような才能に恵まれるわけではないが、多くの人が暴力や貧困にさらされる。その両方を身に着けて大人になってしまったトーニャの悲劇が鮮やかに描かれる本作は、ある意味笑劇の社会派作品である。
 ラストシーンで関係者一同の本人たちが登場する。これがまた興味深い。トーニャ・ハーディの本物のトリプルアクセルは涙をそそる。

I, TONYA
120分、アメリカ、2017
監督:クレイグ・ギレスピー、脚本:スティーヴン・ロジャース、撮影:ニコラス・カラカトサニス、音楽:ピーター・ナシェル
出演:マーゴット・ロビーセバスチャン・スタン、ジュリアンヌ・ニコルソン、ボビー・カナヴェイルアリソン・ジャネイ