吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

弁護人

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 ここ数年来見た韓国映画で最も素晴らしかった。後に大統領になったノ・ムヒョン盧武鉉)の弁護士時代を描いた物語。どこまでが実話なのかよくわからないが、盧武鉉が最初から人権派弁護士ではなかったことは確かだろう。彼が劇的に変わっていく様子が迫真の演技で描かれ、深い感動を呼ぶ。

 高卒で司法試験に合格したソン・ウソクは、貧しい生活の中、日雇い労働の傍らで懸命に勉強に励んで弁護士になった。学歴コンプレックスから、彼はひたすら金儲けに余念がなく、成り上がることを夢見る。周囲の弁護士に馬鹿にされながらも、不動産登記専門弁護士だの税務専門弁護士だの、名刺を作って配りまくるのだ。商才のある弁護士だったのだろう、ソン・ウソクはたちまち釜山でも最も稼ぐ弁護士と言われるようになる。本人も金が儲かることが嬉しくてたまらない。

 ようやく金が溜まったため、貧しかった7年前に食い逃げをした食堂を訪ねて謝罪し、お金を女店主に返そうとするソン・ウソクだったが、店主はお金を受け取らず、ソン・ウソクを暖かく受け入れる。その日から、ソン・ウソクは店主を「アジュマ(おばさん)」と呼んで親しみ、毎日昼食の豚汁飯を食べに通うのだった。

 時代は1981年になっていた。光州事件後のクーデータで大統領になった全斗煥(チョンドゥファン)政権は冤罪事件を捏造し、国家保安法違反の疑いで多くの学生たちを逮捕・拷問していた。食堂の女主人の一人息子パク・ジヌも被害者の一人となった釜林事件が起きる。警察当局のでっち上げにより、反政府活動家のアカだとされたジヌは、拷問を受けて嘘の自白を強要されていた。ジヌの裁判が始まろうとしているとき、食堂のおばさんに泣きつかれたソン・ウソクは、二人を救うためにさまざまな困難を跳ねのけて裁判に立ち向かうこととなった。

 ジヌが逮捕されるまでは、お気楽な弁護士稼業で稼いで上機嫌なソン・ウソクの様子がコミカルに描かれるが、ジヌが逮捕され、拷問を受ける場面からは一転してシリアスな社会派作品の様相となる。ソン・ウソクが人権派弁護士へと転身するきっかけとなるジヌの逮捕・拷問は、ソン・ウソクにとって大きな衝撃だったのだ。明らかな拷問の痕を見て、ソン・ウソクは怒りに身を震わせる。そこから懸命の弁護が始まるのだ。

 ここからの法廷劇は手に汗握る展開となる。見事なソン・ウソクの弁論は、時に裁判長を恫喝し、時に同僚弁護士からの非難も浴び、検察には睨まれることとなる。一旦引き受けた事件を決して諦めることなく、ソン・ウソクはジヌの無罪を証明すべく着実に反証を積み上げていく。しかし、決定的な拷問の証拠が見つからない。とうとう最終弁論の日がやってきた。

 ソン・ガンホの熱演は、この法廷劇でクライマックスを迎える。これほど胸のすく弁護もなかろう。法廷に出ることもない弁護士だったはずが、堂々と検察と渡り合い、裁判長に詰め寄る。彼を変えたものは何だったのか。それは、いま目の前にいる若者とその母親を救いたい、その一心だった。ソン・ウソク弁護士は決して社会主義思想や反政府思想の持ち主ではなかった。彼を動かしたものは、世話になったアジュマと、その息子への恩義と愛情だったのだ。
 「岩に卵をぶつけても卵が割れるだけで岩はびくともしない。権力に立ち向かうのは無謀で無駄なことだ」と言うソン・ウソクに対して、ジヌが語った言葉が胸に響く。
「卵はやがて孵り、鳥となって岩を越えていく」

 事件の顛末はその後どうなったのか、ジヌはその後どのような人生を歩んだのか、知りたくてたまらなかった。その後、ソン・ウソク弁護士ならぬ盧武鉉は大統領となり、やがて辞任後に身内の不祥事などを苦にして自殺してしまう。その後の歩みを重ねてみるとき、この映画で描かれた弁護士は後の大統領と必ずしもイメージが一致しない。その断絶もまた知りたいものだ。

 この映画は、人が与えら得れた状況の中で変わっていくこと、変わることができることを深い感動を以て描いた。心に残る作品だ。

THE ATTORNEY
127分、韓国、2013
監督:ヤン・ウソク、脚本:ヤン・ウソク、ユン・ヒョンホ、撮影:イ・テユン、音楽:チョ・ヨンウク
出演:ソン・ガンホ、キム・ヨンエ、オ・ダルス、クァク・ドウォン、イム・シワン、ソン・ヨンチャン、チョン・ウォンジュン、イ・ソンミン、イ・ハンナ、リュ・スヨン

 

湯を沸かすほどの熱い愛

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 湯を沸かすほどの愛っていうのは、銭湯が舞台になっているから。主人公は宮沢りえが演じる銭湯の女将さん。夫が一年前に突然蒸発し、そのまま銭湯は休業状態にあって、しかも娘は高校で虐められていて、その上自分は突然医者に余命2か月を宣告される。もうこれ以上ないというぐらい問題の多い不幸な家族。しかし、探偵の力を借りて蒸発した夫を見つけ出した。だらしない夫は若い女に産ませたらしい娘を連れて銭湯に戻ってくる。ここからが宮沢りえのど根性母さん物語が涙なしには見られない、という展開。痩身の宮沢りえがそのまま病人の役を演じられるというのがすごい。

 ストーリーが前に進むにつれて、この家族はみんな誰かに捨てられた人ばかりだということが明らかになる。自分が捨て置かれた人間だという傷を負い、苦しみながら生きている者たちが家族となり、懸命に今の状態から脱しようともがきあがき、そして愛を深めていく。

 だらしなくて頼りない夫役のオダギリジョーははまり役だし、子役たちの熱演も素晴らしい。中野量太監督はこれが事実上の長編デビューとは思えない、落ち着いた脚本と演出で観客を飽きさせない。少々やりすぎという場面もちらほらとはあるのだけれど、その軽いコメディタッチの部分もまた、重くなりがちな話に仄かな明かりを灯す。

 舞台となる銭湯の古さがたまらなくいい。今どき薪で沸かしますか! これはラストシーンの伏線でもあったのだな。ヒッチハイクで拾った青年とか、多少無理のある設定がマイナス要因ではあるが、素直に感動してしまうのは、宮沢りえ扮する母が決して諦めない前向きな、そして愛にあふれる女性だからだ。彼女が「死にたくない。生きたい」と泣き崩れるシーンは本当につらかった。

 家族の愛情や絆が必ずしも血縁によってもたらされるものではないことを描いている点も、わたしの琴線に触れた。父だからといって愛せるわけではなく、母だからといって懐かしいわけでもなく、でもやっぱり肉親の愛を渇望する人々の心が切ない。役者たちからいい演技を引き出した中野監督には何か賞をあげてほしいと思ってしまった。

125分、日本、2016
監督・脚本:中野量太、エグゼクティブプロデューサー:藤本款 福田一平、撮影:池内義浩、音楽:渡邊崇
出演:宮沢りえ杉咲花、篠原ゆき子、駿河太郎、伊東蒼、松坂桃李オダギリジョー

 

偉大なるマルグリット

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 巻頭、美しいソプラノやメゾソプラノや二重唱の天使の歌声が聞こえてきてうっとりしていたら、突然マルグリットおばさんの超絶音痴な歌声が響いて目が覚める。

 いやもう、これは天才的な音痴です。どうやってこんな風に音が外せるのか知りたいわ(笑)。

 1920年のフランスで、大富豪の奥方が金に物を言わせて爵位を買ったという。彼女は男爵夫人の地位を得て、第1次世界大戦によって大量に生まれた孤児を助けるためのチャリティーコンサートを開く。社会事業のために熱心に寄付を募る彼女に周囲の金持ちたちはお義理で拍手をするが、その歌にはうんざりしていた。
 実は一番うんざりしていたのはマルグリットの夫なのだ。だから、マルグリットが邸宅で歌う時にはわざと遅刻するために自動車に乗り、「途中で車が故障したので帰宅時刻に間に合わなかった。修理したんだけどね」といって、油で汚れた手を見せる。

 音楽を愛するマルグリットは一日4時間も歌の練習をしているのに、驚異の音痴は治らない。それはそうでしょ、独学だから。その音楽への愛は片思いにすぎないという悲しさ。夫には愛人がいて、マルグリットには見向きもしないという寂しさ。マルグリットの写真をひたすら撮り続け奉仕する黒人執事の切なさ。マルグリットの声楽教師に雇われた歌手の狡猾さ。マルグリットの周囲に渦巻く人々の深くて暗い思いが混とんと混ざり合い、得も言われぬ不思議な空気を生み出している、濃ゆい映画だ。コメディなのか、シリアスドラマなのか、ゴシックホラーなのか、その独特の味付けに深い悲哀を感じる。

 マルグリットはなぜ歌ったのだろう。彼女は自己実現のためではなく、夫の愛に飢えて歌っていた。それは近代的自我に目覚めた女性の業(わざ)ではなく、愛する人に振り向いてもらいたい一心の、幼児のような求愛行動なのだ。フロイトラカンならなんというだろう。まだ口唇期の女性だと看破するだろうか。

 暗い室内の撮影に深い陰影ががあり、独特の雰囲気を醸し出していて、わたしはこの撮影と照明に魅せられた。
 この作品のもととなった実話を描いたアメリカ映画「マダム・フローレンス」をぜひ見比べてみたい。(レンタルDVD)

MARGUERITE
129分、フランス、2015
監督:グザヴィエ・ジャノリ、脚本:グザヴィエ・ジャノリ、 マルシアロマーノ、撮影:グリン・スピーカート、音楽:ロナン・マイヤール
出演:カトリーヌ・フロ、アンドレ・マルコン、ミシェル・フォー、クリスタ・テレ、ドゥニ・ムプンガ、シルヴァン・デュエード

 

シークレット・オブ・モンスター 

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 サルトルの短編小説にヒントを得たということだが、小難しい理屈などなくて、ひたすらうるさくて恐ろしい音楽が鳴り響き不安を掻き立てる作品。原題「指導者の少年時代」っていったって、その指導者がなんで独裁者になったのか、この映画を見ても皆目わからない。答えを提示するようなストーリーは開陳されておらず、異様に美しい少年が広すぎる屋敷の中で孤独を募らせていく様子だけが淡々と描かれる。

 時代は第1次世界大戦が終わったばかり、場所はフランスのおそらくパリ郊外の屋敷。アメリカからやってきたパリ講和会議出席者である外交官一家の一人息子が主人公だ。すでに中年の域を超えている父親と、まだ若く美しく賢い母、優しい料理女(老女)、少年にとって姉のようなフランス語女性教師、といった大人たちに囲まれた彼は、ときどき子どもらしい癇癪を起したりするのだが、大人たちは彼を「手に負えない悪童」扱いをする。
 仕事に熱心で子どもの養育を妻に任せきりにする父親とか、厳格で教育熱心な母親とか、そんなどこにでもありそうな一家の少年がなぜ独裁者に育つのか。その答えをこの物語に求めても何もわからない。ふつうと違うのは、両親がハイソサエティな国際夫婦であることと、少年が一時的とはいえ、外国に暮らしていること。そして何よりも、人間離れしていると思えるほどに美しいこと。

 薄暗い屋敷の中の様子がゴシックホラーのように映し出されたり、奥行きのある屋敷の中が不気味に見えたりといった、雰囲気作りには熱心な作品だ。雰囲気倒れといってもいいぐらいの重厚で陰鬱な雰囲気に惑溺できる人なら、とても面白く見ることができるだろう。

THE CHILDHOOD OF A LEADER
116分、イギリス/ハンガリー/フランス、2015
監督:ブラディ・コーベット、撮影:ロル・クロウリー
出演:ベレニス・ベジョリーアム・カニンガムステイシー・マーティンロバート・パティンソン、トム・スウィート

 

ブルーに生まれついて

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 わたしはJAZZが好きだけれど、まったく詳しくない。いつも聞き流している。それが気持ちがいいから。だから、曲名も演奏者の名前もよく知らない。当然のようにチェット・ベイカーのことは知らなかった。だから、事前情報なしで新鮮な気持ちで見られたことはよかった。

 チェットは早くから才能を見出されて1950年代には人気奏者となるが、60年代にはコカイン吸引などのトラブルを起こして投獄されている。やがてドラッグがらみのトラブルでヤクザ者に前歯を全部折られ、顎を砕かれて演奏不可能となる。そのころには二度の離婚を経て、自伝映画(結局未完に終わった)で共演した女優ジェーンと恋仲になっていた。ジェーンとの結婚を夢見るチェットは懸命の努力でなんとか演奏できるまでに回復する。極貧に落ちていた二人は住まいもなく、自動車で暮らすほどの生活をしていた。チェットが過酷な練習で血まみれになりながらもトランペットを離さなかったのは、音楽への愛と執念ゆえだった。旧知のプロデューサーに何度も懇願してようやく復活のステージへとこぎつけたチェットは極度の緊張に襲われていた。。。 
 イーサン・ホークはトランペットの猛特訓を受けて、歌も披露している。チェットになりきってすさんだ声を絞り出すようにしゃべり、ドラッグ依存の情けない男の繊細な弱さを体現している。一方で恋人の愛にもある意味依存していたわけで、その姿がまた切ない。黒人のジャズを白人が演奏するという劣等感に取りつかれていたチェットは、自分が黒人に認められたいと常々思っていた。だから、復活のステージをマイルス・デイビスが聞きに来ていると知って、彼の緊張は頂点に達する。

 チェットが薬物依存を振り切ろうと努力し、死に物狂いでトランペットの練習をする姿は尊い。彼が弱い人間であることは間違いなく、ダメ人間であることも間違いないが、それだけではない魅力がチェットにはある。イーサン・ホークはそんなふうにチェットを演じている。 
 ドラッグに溺れたジャズトランペット奏者が献身的な恋人の愛に支えられて復活を遂げる感動の物語。ではなくて、そんなに美しい話で終わらないところがミソ。恋人ジェーン役のカーメン・イジョゴも熱演で、印象深い演技を見せている。白人のチェットが黒人であるジェーンの両親に結婚を願いに行ったところ、彼女の父親に反対されてしまうという場面があるのがまた印象に残る。普通は立場が逆だろうに、黒人から「お前なんかに娘をやれるか」という意味のことを言われてしまうチェットも情けない。同時に、父親が、自身が黒人だからといって白人に媚びたりしない誇り高い態度を見せるのも好ましい。

 わたしは東京出張の帰り道、夜行バスに乗るまでの空いた時間にこの映画を見たのだが、さすがに東京は人が多い。いくらミニシアターといってもこの映画で満席立ち見が出るとは。年齢層が高かったから、ジャズファンのシニアが大勢見に来ていたようだ。

BORN TO BE BLUE
97分、アメリカ/カナダ/イギリス、2015
監督・脚本:ロバート・バドロー、製作:ジェニファー・ジョナスほか、撮影:スティーヴ・コーセンス、音楽:トドール・カバコフ、スティーヴ・ロンドン
出演:イーサン・ホーク、カーメン・イジョゴ、カラム・キース・レニー

手紙は憶えている

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 ナチスの戦犯を追及できるのももうわずかな時間しか残されていない、まさにそのタイミングで作られた映画。ホロコーストの被害者が、家族を殺したアウシュヴィッツ収容所の兵士に復讐するという物語は、数年後には成立しないだろう。だから、今しか作れない映画で、今だから作れる映画でもある。戦犯を追及する被害者が90歳なら、追いつめられる元ナチスも90歳。ともに老いぼれ果てて、明日をも知れぬ身だ。

 妻を亡くしたことすら忘れてしまった老人ゼヴ・グットマンは、ホロコーストの生きのこりのユダヤ人。同じ老人施設に暮らすマックスから、自分たちの家族を殺したナチスの兵士がいまだ生き長らえていると告げられる。
「覚えているか? 君は復讐を誓った。忘れないでほしい。委細はすべて手紙に書いたから、今は身分を偽ってアメリカに移住したルディ・コランダーを殺してくれ」
 車椅子生活になったマックスはもはや自分では復讐できない。望みの綱は友人のゼヴだけなのだ。何でもすぐに忘れてしまうゼヴのために、マックスは手紙を書いた。容疑者は4人にまで絞られた。一人ずつを訪ねて本人を追及し、復讐を遂げる役割はゼヴに委ねられた。ともにアウシュヴィッツを生き延びた人間として、ともに家族を皆殺しにされた人間として、ゼヴは残りの人生を復讐にかけて旅に出ることをマックスに誓う。こうして、アメリカを縦横に駆け、カナダ国境を越える復讐の旅は始まった。記憶が薄れゆくゼヴの頼りはマックスの手紙だけ。「手紙を読め」とゼヴは自分の腕に書き込んだ。拳銃も手に入れた。果たして彼らの復讐は遂げられるのか?

 戦後70年も経って壮大な復讐譚が物語られる。初期の認知症であるゼヴの一挙手一投足が観客にとってはハラハラさせられどおしで、スリルに満ちている。細部に至るまで、心憎いほどの演出が効いているところはさすがアトム・エゴヤン監督の作品だと思わせる。自身がアルメニア大虐殺の子孫であるエゴヤン監督がこのような作品を作ることは理解できる。しかししかし。70年経っても復讐の執念は消えないのか。消えないのだろう。ユダヤ人は2000年以上前の故郷喪失の記憶も忘れない民族なのだから、たかだか70年の恨みは消えることはないだろう。それが悲しくつらい。わたしたちの世代はいつまで戦争の記憶を持ち続け、いつまで復讐の執念を燃やさねばならないのだろう。もちろん、戦争の記憶は忘れてはならない。二度と同じ過ちを繰り返さないために。しかし、復讐はまた話が違う。

 この復讐譚の恐るべきところは、失われつつある記憶を繰り返し召喚し、繰り返し増幅させるうちに、かつての恐るべき記憶をゆがんだ形で再生させていくことだろう。そして何よりも、復讐の連鎖が次の世代にまで受け継がれるかもしれない恐怖だ。だから、衝撃のラストはさまざまな論議を呼ぶことが必至と思われる。見終わった後にもう一度最初から見直して、そして誰かと語り合いたくなる作品だ。

 本作はアーカイブズ映画でもある。ホロコーストの記録を収集しているサイモン・ヴィーゼンタール・センターが登場し、ゼヴとマックスもここで自分たちの復讐相手の情報を入手する。

REMEMBER
95分、カナダ/ドイツ、2015

監督:アトム・エゴヤン、脚本:ベンジャミン・オーガスト、音楽:マイケル・ダナ
出演:クリストファー・プラマーブルーノ・ガンツ、ユルゲン・プロフノウ、ハインツ・リーフェン、ヘンリー・ツェーニー、ディーン・ノリス、マーティン・ランドー

 

この世界の片隅に

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 「君の名は。」よりもいい、という大人が大勢いる作品なので遅ればせながら見に行ったところ、やはり劇場は混んでいた。

 戦時下の広島と呉の日常生活を、19歳のすずという女性(というより少女)を通して描いた作品。現在の呉市には大和ミュージアムがあり、軍艦大和の模型が展示されている。このアニメの中ではその大和が軍港呉に係留されている様子が描かれている。軍港であるがゆえに何度も空襲を受ける呉の町。郊外に住むすずの嫁ぎ先にも焼夷弾が落ちてくる。

 こうの史代の素朴な線画を生かしたアニメは原作にはない緻密な背景の描き込みが特徴で、戦争によって破壊される前の広島の町や呉の町を哀切とともに浮かび上がらせる。観客はその街並みがすべて失われることを知っているから、かすかに心をかき乱されながらその風景を見ることになる。

 大人しくて内気なすずがただ一つ得意なことは絵を描くこと。彼女は時間があれば街並みを写し取り、生活を描き、スケッチブックに綴っていく。それは言葉少ないすずにとって、言葉よりも饒舌に彼女の心を語るものなのだろう。

 「すずさんは普通じゃのう」と言われる、そんな、ほんとうに「ふつう」に生きるすずだから、戦争が起きてもそれが誰のせいなのかと考えもしないし、配給の食べ物がどんどん減っていっても文句を言うこともない。まるで「仕方がない」と思っているかのようだ。いや、実際「仕方がない」と思っていたのだろう。あの当時の多くの日本人と同じく、彼女も仕方がないと思って救貧生活に耐え、戦争だからと耐え、兄が戦死しても「これが戦争だから」と耐えたのだろう。

 しかし、そんな彼女にも耐えがたいことが起きる。空襲により彼女自身が大きく傷つき、大切な命が失われる。なぜなんだ? 失われていくもの、喪われた命、二度と戻らない日々がすずを打ちのめす。やがて広島に原爆が落とされる、そのキノコ雲を見上げる呉の人々の驚きや、広島から爆風で飛ばされてきた戸やビラやさまざまな品々が、破壊力のすさまじさを物語る。

 驚くべき精密さで再現された昭和初期の町や日常生活が心にしみわたる。黒木和雄監督の「TOMORROW 明日」を想起させるような、「淡々とした日常生活が破壊される戦時下の暮らし」がここでも描かれているのだ。海の向こうの日本軍の残虐も差別もこの映画には描かれない。誰が被害者で誰が加害者なのかも問われない。けれど、戦争が奪っていくものの尊さをじっくり描いた本作は、静かな感動に満ちている。原爆が広島の町を焼き払っても、大切な命が奪われても、生き残った者はそれでも生きていかねばならない。戦争が続いていようが終わろうが、飯を炊かねばならない。その日常のよすがとなる記憶を留める、すずの描いた絵は、彼女と家族にとっての宝物になるだろう。

 エンドクレジットが画面に現れたとき、もっと見ていたいと思った。この後、この人たちはどうなるのだろう、どうするのだろう、と気になって仕方がなかったのだ。もうすずさんは他人じゃない、わたしの妹のようにも、娘のようにも思えたから。

126分、日本、2016
監督:片渕須直、原作:こうの史代、脚本:片渕須直、音楽:コトリンゴ
声の出演:のん、細谷佳正、稲葉菜月、尾身美詞、澁谷天外