吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ザ・ギフト 

 この作品、映画としては出来がいいと思う。しかし、点数をつけるのもいやになるぐらい陰鬱な作品だ。そして、怖い。この映画を観ている最中に、「なんでこの映画を観ようと思ったんだろう。もう帰りたい」と思うほど、怖かった。

 あらすじはこうだ。若者から中年にさしかかる年齢の夫婦がロサンゼルス郊外の邸宅を購入した。彼らは成功したミドル世代だ。引っ越しのための買い物をしている途中で、夫のサイモンの友人と名乗る男が近づいてくる。確かにその男ゴードはサイモンの高校の同級生だった。ゴードはサイモンとロビン夫妻の家を訪ねて贈り物(ギフト)を玄関に置いて帰る。それは美味しそうなワインだった。それ以後、ゴードは何度もサイモン夫妻の家にギフトを届けるようになる。しかし、サイモンはゴードを快く思っていない様子。徐々にゴードの態度が度を増すようになり、サイモンはイライラし始める。ロビンはこの家に引っ越してくる前に子どもを流産したつらい記憶がまだ癒えないでいる。そんな彼らに、不気味な影が忍び寄る。。。

 わたしのような怖がりを怖がらせる要因はいくつもある。そもそも、邸宅を購入した途端に現れるっていう同級生が不気味だ。素朴そうな同級生。今は社会の底辺で呻吟していそうな彼が、かつての同級生で、成功したビジネスマンの家を訪ねる。しかしその彼がいないときにに陰口を妻に向かって吐くような嫌な男、サイモン。徐々にサイモンというエリートのいやらしさが見えてくる過程がスリリングだ。なぜゴードがサイモンに付きまとうのか、その理由もやがて明らかになる。
 サイモンとロビンの邸宅が全面ガラス張りというのも怖い。なんでこんな家に住む人がいるのか、わたしには理解不能なのだけど、外に向かって無防備なこの家のつくりそのものが恐怖の淵源だ。ガラス張の家は成功した夫婦の自己顕示欲の象徴なのだろう。

 ストーカーの怖さには、1)見ず知らずの人間に付きまとわれる恐怖、2)相手を知っているだけに味わう恐怖、の2通りがある。本作の場合、2である。2であることはやがて明らかになる。本作の視点はほぼサイモンの妻ロビンのものだ。なぜゴードにつきまとわれるのか、ロビンも観客も知らない。やがて真相を知ったとき、取り返しのつかない出来事が起きていることに気づく戦慄。「もう遅い、遅いんだよ」とゴードが何度も言う、そのセリフの真の意味を観客が(そしてサイモンが)知った時の衝撃はえもいわれない。

 思い返せば、いろんなセリフがすべて伏線だったとわかるラストに、観客は唖然とするだろう。本当に怖い映画だ。そして、後味も悪い。

 ひょっとして監督・脚本のジョエル・エドガートンはいじめられっ子で、復讐をこの映画で果たそうとしたのか、と勘繰ってしまうような物語だった。

THE GIFT
108分、アメリカ、2015
監督・脚本:ジョエル・エドガートン、製作:ジェイソン・ブラム、音楽:ダニー・ベンジー、ソーンダー・ジュリアーンズ
出演:ジェイソン・ベイトマンレベッカ・ホールジョエル・エドガートン、アリソン・トルマン

 

ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期

 シリーズ第1作から15年が経っているけれど、映画の中では10年しか過ぎていないことになっている。しかし実際のところ、15年経ってるわけだから、マーク・ダーシー(コリン・ファース)の老け方が半端ない。でもスーツが似合って素敵。レニー・ゼルウィガーも痩せて老けたけど、笑顔がかわいい。この、人のよさそうな笑顔があるから、「モテ期」というタイトルに説得力が出るわけだ。

 このシリーズは女の願望がそのまま表れたようなもので、本作に至ってはブリジットがこれ以上ないというモテ方をする。ありえないよね、こんな話。なんと今回はブリジットが43歳で妊娠出産するというすごい設定になってしまった。これ、彼女が48歳ならもう出産はほぼ不可能だから43歳というギリギリの設定にしたんだろう。
 シリーズとしては12年ぶりの作品だが、前作をほぼ全部忘れている。ダーシーとブリジットは結婚するということになっていたのか。ふーむ、覚えていない。で、久しぶりにマーク・ダーシーとブリジット・ジョーンズは再会するわけだが、なんとそれはスケコマシのダニエルの葬儀でなのだ。”All by Myself"を歌うブリジットと彼女の日記独白、という巻頭には懐かしくて笑いそうになった。そうそう、15年前もこれだったよね。

 あとは、下ネタやギャグやおふざけ満載の展開で、コメディなんだからなんでもあり。ブリジットが妊娠したのはいけれど、果たして父親は誰なんだ? 父親が誰かわからないという展開なのに、誰も本気で悩んでいるように見えないところが天晴だ。産婦人科医も話を合わせようとするし。エマ・トンプソン、当たり役って感じがしてとてもよかった。この人、最近医師役が多くないですか。

 正反対の二人の男に愛されて、どこまでも尽くされる羨ましいブリジット。二人の男の間で迷うブリジットだけれど、やっぱり選ぶのはこの人なのよねー。

 15年経って世の中は同性愛が堂々とカミングアウトしやすくなり、代理母だの同性結婚だのと多様性が増えたことが映画の中でも肯定的に取り上げられていて、歳月の流れを感じさせた。

 なんと、この作品はパンフレットを製作していないと! もうこの頃では劇場用パンフレットははやらないのだろうか。この後に見た「ギフト」もパンフレットを販売していなかった。パンフレット収集家としては大変残念である。あ、調べてみたら、前作のときもパンフレットを作っていなかった。著作権者が許可しないそうだ。なんで?

BRIDGET JONES'S BABY
123分、イギリス/フランス/アメリカ、2016
監督:シャロン・マグアイア、製作:ティム・ビーヴァン、脚本:ヘレン・フィールディング、エマ・トンプソンダン・メイザー、撮影:アンドリュー・ダン
出演:レニー・ゼルウィガーコリン・ファースパトリック・デンプシージム・ブロードベント、ジェマ・ジョーンズ、エマ・トンプソン

 

淵に立つ

 描かれているのは復讐なのか、贖罪なのか。
 ある日突然、町工場の入り口に中年男が姿を現した。工場のオーナーの古い友人のようだ。礼儀正しい彼は刑務所を出所したばかり、ということは間もなく観客にも知らされる。町工場の住み込み行員になった男は、じわじわとこの家族の中に位置を占めていく。最初は工場主の妻の中に。やがては工場主の小学生の娘の中に、後戻りのできない大きな傷を残していく。それは復讐だったのだろうか。誰にもわからない。
 工場主の妻を演じた筒井真理子がひどく艶めかしい。実年齢は五十代半ばというのに、映画の前半の彼女はつやのある長い髪をやさしく揺らせながら微笑む若奥様を演じている。だが、「事件」から8年後の彼女はすっかり疲れ切った中年女性として画面に現れる。女優とはかくもすさまじく役柄に合わせて変われるものなのか。
 夫婦の絆も家族の愛もなにもかもが、一人の男が一家の中に入り込んできたことによってもろくも崩れ去るさまを残酷に冷酷に描いた作品として、本作は観客に鋭い問いかけを残していく映画だ。小市民の幸せなんてしょせんはこの程度のものよ、とあざ笑うかのような展開に、見る者の心が凍り付く。神を信じたはずの妻がもはやすっかり信仰をなくしてしまう、そんな残酷な日々の中で、それでも真実を知りたいというただ一つの執念に翻弄されていく。なぜ自分たち家族がこんな目に遭うのか? しかし、「こんな目」そのものを全否定することは、観客自身の中にある差別意識との対峙を迫ることになる。なんという意地の悪い映画だろうか。何という戦慄の映画であろうか。

 映画の途中で忽然と消えてしまう浅野忠信が、最後の最後まで零細工場主夫婦を翻弄する。物語の中心である浅野忠信は空洞であるにもかかわらず、この一家の夫婦にとって永遠に追いすがっていきたい執念を植え付ける存在となる。不在の現前。不在であることがかくも大きな現前であるという逆説。浅野忠信に代わって登場する、物語後半の人物は、その出自を明らかにした瞬間に、映画空間を震撼させる恐怖をこの一家にも、そして観客にも与える。これほどの因果をさらりとこの人物に語らせる脚本が怖い。

 誰もが淵に立つこの寓話は、しかし、平凡な日常生活を営む多くの人々にとっても、ある導火線に気付かせるたくらみがある。わたしたちは淵に立っているのだろう、きっと。そのことにずっと前に気付いていながら、気づかないふりをしている。もう気付いていることを言明することすら諦念の中で面倒になり、もはやどうでもいいこととなる。淵に立つ人々は、その淵から転がり落ちたときにはじめて自分が淵に立っていたことに気付くのだろう。いや、気づかない振りをしていたことに思い至るのだろう。

 音が異様に響く映画。こういう音の使い方は「シルビアのいる街で」以来久しぶりかも。

119分、日本/フランス、2016
監督・脚本:深田晃司、撮影:根岸憲一、音楽:小野川浩幸
出演:浅野忠信筒井真理子、太賀、三浦貴大、篠川桃音、真広佳奈、古舘寛治

 

イレブン・ミニッツ

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 午後5時の鐘が鳴り響く大都会、11分後にはある惨劇が起きるのだが、そこに至るまでの11分を群像劇で織り上げていく、斬新な作品。
 だれが主人公なのかは最後にわかるのだが、次々といろんな人々が登場するため、いったい何がどうなっているのやらわかりにくくて困る。何よりも、人物の顔の見分けがつきにくい。馴染みのある役者が登場しないため、誰と誰がどうなっていたのかわからなくて困った。これ、2回見たら理解できるのかもしれない。

 新作のオーディションに向かう豊満美女の女優が、下心丸出しの監督が宿泊している豪華ホテルの部屋にやってくる。これがそもそもミソだったんだ、ということが最後の最後にわかるのだが、そういうことを全然知らなくて見たら、群像たちの役回りが不明でイライラさせられるかもしれない。

 ただ、同じ場面を違う角度から見るとまた違った見方ができるというところは面白い。「桐島部活やめるってよ」と同じ撮り方をしている部分があるのだ。いろんな人物がなんのまとまりもなく登場しては消え、消えてはまた現れる。そして時計は着実に針を進めて、運命の5時11分に近づく。

 なんといっても圧巻はラストシーン。ストップモーションで見せたこの惨劇はどのように撮影したのかと首をひねるほど、計算されつくしている。これをしたかったのか、スコリモフスキ監督。このシチュエーションドラマは、人間の運命の不思議を感じさせる作品であり、ひょっとしたらこれって仏教思想が根っこにあるんじゃないかと思える。そう、「縁」とか「因果応報」とか。

 この映画が、強烈な惨劇を描いているからインパクトが大きいが、わたしたちの人生にはこれよりはるかに規模の小さな「嵐」や「風」が吹いてくることがある。なんの因果でか人と人が出会うこともあり、一目合ったその日から何かが始まることもあり、偶然のからまりが事故を引き起こすこともある。

 たとえば大地震が起きる11分前の出来事をこの映画のように描くことも可能だろう。11分後に大災害が起きることを誰も知らない、その日常の世界を。原爆投下が明日に迫っていることを知らない人々を描いた黒木和雄の「Tomorrow 明日」という作品もあった。だが、そういったものとは一味違うのは、この映画で起きる惨劇はどれか一つのコマが違ってもこの事件が起きない、という点だ。ありとあらゆる登場人物がたった一点の「発火点」に遭遇する、その場に居合わせる、そのことがドミノ倒しを引き起こす。

 不気味に雰囲気を盛り上げる音楽に恐怖を募らせながら、ある意味爽快でもあるラストの臨界へ向けて、さあ、飛びこもう映像世界へ!

11 MINUT
81分、ポーランドアイルランド、2015

製作・監督・脚本:イエジー・スコリモフスキ、製作:エヴァ・ピャスコフスカ、音楽:パヴェウ・ミキェティン
出演:リチャード・ドーマー、パウリナ・ハプコ、ヴォイチェフ・メツファルドフスキ、アンジェイ・ヒラ、ダヴィッド・オグロドニック、アガタ・ブゼク、ピョートル・グロヴァツキ、ヤン・ノヴィツキ、アンナ・マリア・ブチェク、ウカシュ・シコラ

 

でんげい

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 「でんげい」とは、伝統芸術部の略称。大阪にある在日コリアンのための民族学校「建国学校」に作られた、文化クラブの一つだ。学校法人白頭学院建国幼・小・中・高等学校は、1946年創立の民族学校で2016年には創立70周年を迎える。在日韓国・朝鮮人の子弟に言葉と文化と歴史を学ばせたいとして作られた学校である。建国学園は幼稚園から高校までの児童・生徒が同じ敷地に学ぶ学園なので、伝統芸術部にも中学生と高校生が所属する。本作は、2014年にその「でんげい」の高校生たちが全国高校総合文化祭に出場し、見事入賞した過程を追ったドキュメンタリー。

 そもそも全国高校文化祭て何? 建国学園て何? なんで日本の「文化部のインターハイ」と呼ばれる競技会の「伝統芸能」部門に韓国の民族芸能を演じる高校生たちが参加しているのか? 謎は謎を呼ぶ。

 この映画のもとになったのは韓国のテレビ局が作った番組だ。若き在日同胞の姿を本国の人々に伝えるために制作された。だから日本語のセリフにはハングルの字幕が付く。そのドキュメンタリーを映画用に再編集し、日本では「いばらきの夏」と題して今年3月の大阪アジアン映画祭で好評上映された。

 でんげいの生徒たちが取り組む演技は、朝鮮半島に伝わる民衆舞踊「農楽」である。打楽器による音楽に合わせて踊り手がリズミカルに体を動かし、アクロバティックな動きで頭を振りながら帽子の頭頂部についたテープを自在に動かす。彼らは学校の体育館で毎日遅くまで練習に精を出す。

「子どもをでんげいに入れたら、嫁にやったと思え」と言われるほど夜遅くまで学校にいるため、家族が顔を合わせることも少なく、一家団欒も望めない。その練習はまことに過酷で、高校生たちは文字通り汗と涙にまみれている。

 彼らを指導する在日韓国人のチャ・チョンデミ(車 千代美)先生は藤山直美に顔も体型も声も似ていて、映画の観客も震えあがるほどに厳しい叱咤の声を飛ばす。徹底的に叱られたある女子高生は泣いて泣いて泣いて、しまいにはトイレに籠ってしゃくり上げている声が廊下にまで漏れ、わたしなどは思わずもらい泣きしそうになった。

 韓国から招聘した大学教員も彼らの指導に当たり、韓国の学生たちよりも建国高校の生徒の方が熱心なので教えがいがある、と穏やかに笑う。

 映画全体の雰囲気はド根性のスパルタ練習風景が続く厳しいもので、彼らの奮闘努力には頭が下がるのだが、これが甲子園を目指す高校球児たちの激しい練習とどこが違うのかと聞かれると、何も変わるところはないと答えるしかない。一つのことに打ち込む若者の姿には国境も民族の違いもない。

 本作は韓国人に在日の高校生の様子を伝えるために作られた、という目的に合致する作品なのだろうか。建国高校の生徒達が韓国語を自由に使うことができるのは、在日全体の状況から言えばきわめて珍しいことだという断りがなければ、韓国人たちは誤解するのではないか。この映画には在日への民族差別の実態などまったく描かれていないし、日本の高校総合文化祭にでんげいが12年連続出場することになったきっかけも語られず、都道府県の代表はどうやって選出しているのかもわからない。描かれていないことが多すぎて、かえって好奇心が刺激される。思わず建国学校や全国高等学校文化連盟のWEBサイトを読みふけってしまった。

 この映画は見る人によってかなり異なって映るだろう。あえて日韓の政治的な軋轢や溝には触れず、ひたすら懸命に練習に励む生徒と、厳しくも熱い思いで彼らを鍛える教師との格闘の姿を描く、日本の高校生たちとなんら変わることのないその様子は、同化と異化、包摂と排除のパワーポリティクスを読み込みたい観客の期待を脱臼させる。一方で、「自分たちの文化を知って初めて朝鮮人であることに誇りが持てた」というチャ先生の言葉を挿入することも忘れない。マイノリティが持つ「アイデンティティへの渇望」がここには横たわっていることがわかる。

 日本の伝統芸能だけを競技の対象とするのではなく、在日マイノリティがその遠いルーツに持っている伝統文化をも日本社会の文化の一つとして認めた全国高等学校文化連盟の判断は、多様性への開かれとして大いに評価したい。できればその経過も映画の中で伝えてほしかったものだ。いずれは在日中国人の京劇や在日ブラジル人のサンバが高校総合文化祭で披露される日が来るかもしれない。その日が楽しみだ。

エンド・オブ・ホワイトハウス

 意外に面白かったので、高得点。
 同じような”ダイハード・ホワイトハウス版”の映画がチャニング・テイタム主演で同時期に上映されていて、どっちも面白いから、やっぱりこの手のネタは何度繰り返しても面白いのだろう。むしろ、結末がわかっていて安心してみていられるという水戸黄門的な楽しさがあるのかもしれない。 
 しかし、北朝鮮のテロリストが米軍機を乗っ取ってホワイトハウスを陥落させていったい何の得があるんだろう? その設定が全然理解できなかったので、もうストーリーはわたしにとってはどうでもよくなった。どうでもいいから、どんな展開でも面白ければよい。

 ジェラルド・バトラーの身体能力の高さととっさの判断力の良さ、何よりも、大統領の妻を事故で死なせてしまった責任を問われて左遷されていた元シークレットサービスが、落胆の日々から起死回生するというストーリーにスカッと爽やかな気分がする。大統領自身も体育会系らしくて、この点も「ホワイトハウス・ダウン」と同じだね。よくこれだけ同じ話を作ったもんだ。しかし「ホワイトハウス・ダウン」がコメディタッチも多用したのに対して、こちらはほぼシリアス路線でグイグイいく。適役の北朝鮮テロリストもかっこよかった。

 というわけで、四方八方かっこよく、万事めでたし。え? いやそんなわけないって。北朝鮮のテロリストが実は韓国の組織? え?違う? わたしの頭では理解できない不思議な設定にどっかからクレーム来ないんでしょうか。ホワイトハウスの警備陣が弱すぎて、米軍も弱すぎて、そんなんでクレームなし? まあえっか。続編もあるし。(レンタルDVD)

OLYMPUS HAS FALLEN
120分、アメリカ、2013
監督:アントワーン・フークア、製作:アントワーン・フークアジェラルド・バトラーほか、脚本:クレイトン・ローゼンバーガー、カトリン・ベネディクト、音楽:トレヴァー・モリス
出演:ジェラルド・バトラーアーロン・エッカートモーガン・フリーマンアンジェラ・バセットロバート・フォスターコール・ハウザーアシュレイ・ジャッドメリッサ・レオ

 

The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛

 2013年に見た映画だけれど、アウンサンスーチー氏来日を記念して感想をアップ。

 この作品、リュック・ベッソンが監督するのだから(実はわたしはアン・リーが監督だと勘違いしていた)、あまり期待していなかったのだが、どうしてどうして、なかなか面白かった。現在進行形の苛烈な政治劇を「面白い」と言ってしまうのはためらわれるが、波瀾万丈のアウンサンスーチーの半生を実に小気味よく描き、美しく勇敢な女性を称える作品として、心が洗われる。

 彼女の伝記事項についてはほとんど知らなかっただけに、すべての事実が驚きであったし、映画が政治的背景の説明よりも家族愛に軸を置いた点でも観客にはわかりやすかったのではなかろうか。しかしその分、軍事独裁政権のあくどさが戯画的で、ビルマの複雑な政治状況が全然この映画ではわからない、という点がマイナスではある。

 ミシェル・ヨーはマレーシア出身の女優だが、ビルマ語と英語を駆使して熱演している。個人的には、彼女の夫であるイギリス人学者のなんとなく情けない表情が魅力的に見えた。53歳の若さで癌死するかの夫は、ビルマの政治指導者を妻にしたそのつらさを表にはみせず、ひたすらスーに尽くす。その愛に泣かされる。そもそも建国の父アウンサン将軍の娘というだけで、実際にはスーは政治活動の経験はなかった。たまたま母親の看病のために帰国したときに、民衆に熱狂的に迎え入れられ、突如として50万人の民衆の前で演説することになる。
「大勢の人の前でしゃべるのは初めてなのよ」と夫に不安気に囁いたあと、一転、凛として民衆に語る姿が素晴らしい。

 通算15年も自宅に軟禁されていたアウンサンスーチーだが、あれだけ広いお屋敷ならまあえっか(いや、よくないけど)と思えるほど、やはり彼女はお嬢様なのだ。お嬢様であるスーチーがやがてビルマ民主化のリーダーとして成長していく姿が、その活動を支える家族の目を通して描かれる。イギリスにいる息子たちはビルマに離れて暮らす母親に会いたがる。「マミーに会いたい」という少年たちの姿がいじらくて泣ける。政治活動に献身する者は、いや政治に限らず、仕事に没頭する者は多かれ少なかれ家庭生活を犠牲にせざるをえない。アウンサンスーチーは夫が重篤になると、何とかして家族をビルマに呼ぼうとするが、政府が入国を許さない。アウンサンスーチーが出国する分には構わないという。つまり、ていよく国外に追放して再入国を許さないつもりなのだ。家族をとるか、国をとるか。究極の決断を迫られてスーチーは悩む。身を引き裂かれるようなつらさが観客にも伝わる。

 現在進行形のビルマ民主化はいまだ道半ばであり、アウンサンスーチーの政治的立場に批判的な意見もありえるだろう。映画が製作されてから5年が過ぎ、ミャンマーは事実上アウンサンスーチーが政権を執った。しかし前途はまだまだ多難ではなかろうか。(レンタルDVD)

THE LADY

133分、フランス、2011 
監督: リュック・ベッソン、製作: ヴィルジニー・ベッソン=シラ、アンディ・ハリース、脚本: レベッカ・フレイン、音楽: エリック・セラ
出演: ミシェル・ヨーデヴィッド・シューリス、ジョナサン・ラゲット、ジョナサン・ウッドハウス、スーザン・ウールドリッジ、ベネディクト・ウォン